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於夫羅Wufuluo

オフラ
(ヲフラ)

(?~195
南匈奴単于

南匈奴単于右賢王。「於扶羅」とも書く。羌渠の子劉豹の父、呼廚泉の兄。前趙劉淵祖父にあたる《晋書劉元海記》。

中平四年(一八七)に叛逆張純鮮卑討伐のため詔勅によって匈奴兵が徴発されたとき、右賢王於夫羅が統率者となって参朝することになったが、翌五年、国許叛乱起こって羌渠殺され叛乱者は須卜骨都侯を立てて単于とした。於夫羅は朝廷赴いて告訴し統率していた兵をそのまま手元置いて中国に留まった《武帝紀・後漢書南匈奴伝》。

霊帝崩御する天下混乱起こったので、於夫羅は数千騎を率いて西河郡白波賊と合流し太原河内などの諸郡を荒らし回った武帝紀・後漢書南匈奴伝》。そこで勅命下り幷州董卓が於夫羅を討伐することになったが、ちょうど大将軍何進宦官殺害される事件があり、董卓都に引き返していった《董卓伝》。

初平元年一九〇)正月曹操らが董卓打倒義兵起こすと、於夫羅は張楊とともに袁紹従い漳水のほとりに駐屯する。のち(翌二年七月以降)に於夫羅は張楊人質に取って叛逆し、鄴の南において袁紹大将麴義追撃された。於夫羅はそのまま黎陽逃れ度遼将軍耿祉の軍勢奪って勢力盛り返した張楊伝》。

三年黒山于毒らは東郡太守曹操本拠地東武陽攻撃したが、曹操黒山急襲したため、于毒らは引き返した曹操は彼らを待ち伏せて撃ち破り、さらに内黄進んだ。ここで於夫羅と戦いとなり、於夫羅は曹操大敗した武帝紀》。翌四年春、袁術陳留侵出すると、於夫羅は黒山とともに彼を支援したが、袁術曹操敗れて揚州逃れている《武帝紀》。

当時民衆はみな軍勢抱えていたので、略奪しようとしても何も得られなかった。そのうえ軍勢傷付いてしまったので於夫羅は国に帰ろうとしたが、国許では彼を拒絶したので河東郡に留まった。須卜骨都侯は一年死去したが、朝廷ではそのまま単于の座を空位として、年老いた王に国を管理させた。於夫羅は興平二年(一九五)に死去した。弟呼廚泉単于となり、於夫羅の子劉豹左賢王とした《後漢書南匈奴伝》。

参照于毒 / 袁術 / 袁紹 / 何進 / 麴義 / 羌渠 / 呼廚泉 / 耿祉 / 須卜骨都侯 / 曹操 / 張純 / 張楊 / 董卓 / 劉宏霊帝) / 劉豹 / 河内郡 / 河東郡 / 鄴県 / 黒山 / 漳水 / 西河郡 / 太原郡 / 陳留郡 / 東郡 / 東武陽県 / 内黄県 / 幷州 / 揚州 / 黎陽県 / 右賢王 / 左賢王 / 大将軍 / 度遼将軍 / 牧 / 宦官 / 匈奴 / 黒山賊 / 単于 / 前趙 / 鮮卑 / 白波




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