ロシア音楽の保守的潮流とは? わかりやすく解説

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ロシア音楽の保守的潮流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 20:44 UTC 版)

ニコライ・ザレンバ」の記事における「ロシア音楽の保守的潮流」の解説

ザレンバは、ロシア音楽協会サンクトペテルブルク音楽院創立したアントン・ルビンシテイン取り巻支持者ひとりであり、アレクサンドル・ファミンツィンゲルマン・ラローシらと並んでロシア音楽アカデミズム保守的潮流代表する存在だった。このためミリイ・バラキレフ主導するロシア国民楽派対立し、「力強い一団ロシア5人組)」のメンバーであるモデスト・ムソルグスキー風刺歌曲ラヨーク』(1870年)において、ザレンバの保守性ヘンデルオラトリオマカベウスのユダ』から「見よ、勇者は帰る」の旋律引用して皮肉っている。 1867年ルビンシテインロシア去った後、ザレンバがサンクトペテルブルク音楽院院長となる。しかし、音楽院運営ロシア音楽協会と同様、支援者である帝室影響力依存しており、1871年ロシア大公妃エレナ・パヴロヴナカリキュラム変更要求作曲家育成をやめて管弦楽演奏だけを教えるという布告抗議したザレンバは解任された。彼の後任にはミハイル・アザンチェフスキー(英語版)が任命された。 ザレンバはその後作曲に力を注ぎ序曲2曲、弦楽四重奏曲1曲、ピアノ曲9曲、多数合唱曲オラトリオ洗礼者ヨハネ』を残した1878年脳卒中倒れて一年後サンクトペテルブルク死去し同地のヴォルコヴォ墓地埋葬された。遺された妻子スイスモントルー近郊クラレンス移動したが、その時ザレンバの作品自筆譜携えて行ったため、これらの存在2010年バーゼル大学により発見されるまで知られていなかった。

※この「ロシア音楽の保守的潮流」の解説は、「ニコライ・ザレンバ」の解説の一部です。
「ロシア音楽の保守的潮流」を含む「ニコライ・ザレンバ」の記事については、「ニコライ・ザレンバ」の概要を参照ください。

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