ロシア・ツァーリ国の時代とは? わかりやすく解説

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ロシア・ツァーリ国の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 17:32 UTC 版)

ロシアの農奴制」の記事における「ロシア・ツァーリ国の時代」の解説

イヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ国建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)もまた1550年同様の法典定めた。これは、1497年法典改正加えたもので、中小領主である士族層の経済的安定を図る一方で修道院貴族層の土地所有制限条項をふくみ、また、代官への監督強化盛り込んだ全体として中央集権化方向性示した法令であったが、農民移動における「聖ユーリーの日」にかかわる規定については、前代をほぼ踏襲したイヴァン4世統治下のロシアは、コサックカザーク)の頭領イェルマーク遠征などにより、その版図シベリア広げたが、このような外的な発展内的にはむしろ農奴制への傾斜もたらした中央部北西部農民多くが、のしかかる負担重さから領主のもとを離れ南方東方辺境へと向かった。そのため、イヴァン治世晩年の頃には「聖ユーリーの日」の規定廃止され1580年勅令ロシア農奴制基礎確立した1581年および1582年は、一切農民移動禁ずる禁止年」に定められた。また、領主に対しては、逃亡農民捜索および逃亡先への身柄引き渡し請求権認められた。 ロマノフ朝第2代アレクセイのとき、1649年全国会議制定された「会議法典1649年法典)」によって、農奴制立法化おこなわれた。この法典全体25章967項よりなるものであったが、そのうち最も著名なものは農民裁判に関する規定第11章であった。ここでは、逃亡農民捜索期限撤廃され無制限となり、これよりのち逃亡農民かくまうに対して高額な罰金定められ農民土地緊縛完成した16世紀末葉から17世紀中葉にかけては、ロシア史上、本格的な農奴制成立をみた時期である。 しかし、こうした土地緊縛対し農民たちはしばし激しく抵抗し肥沃ではあるが人口少な南部などに逃亡をはかる者が少なくなかった。その一方南ロシア本拠とするドン・カザーク慣習法を盾にして逃亡者引き渡し応じないことも多く、このことは、カザーク軍事力依存する部分大きかったロマノフ朝をおおいに悩ませた。 アレクセイ治下1670年から1671年にかけては、ドン・カザークスチェパン・ラージン中心に大規模な反乱起こっている(ステンカ・ラージン農民反乱)。この反乱とその首謀者についてはロシア民謡ステンカ・ラージン」で広く知られるところである。反乱の原因のひとつに、農業見切りをつけた逃亡民がドン・カザークの地に大量に流入したことが挙げられる。ただし、この頃までは地主農民の関係はまだ契約にもとづく要素があり、農民地位後年ほど苛酷なものではなかった。

※この「ロシア・ツァーリ国の時代」の解説は、「ロシアの農奴制」の解説の一部です。
「ロシア・ツァーリ国の時代」を含む「ロシアの農奴制」の記事については、「ロシアの農奴制」の概要を参照ください。

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