レニングラードとヨーロッパ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 01:40 UTC 版)
「レフ・ランダウ」の記事における「レニングラードとヨーロッパ」の解説
1924年16歳でレニングラード国立大学に移り、1927年に19歳で卒業して学位を取得した。同大学は当時のソ連における物理学研究の中心地であった。同年、エネルギー密度行列の概念をフォン・ノイマンと並行する形で独自に発見した。大学卒業後はレニングラード物理工学研究所に在籍して磁場中の電子の運動、量子電気力学の研究を行い、1934年に博士号を取得した。1929年から1931年にかけて、ロックフェラー財団の奨学金を得て国外留学に旅立った。その時までに彼はドイツ語とフランス語に堪能で、英語でもコミュニケーションすることができた。後に英語を上達させ、デンマーク語も学んだ。 ゲッティンゲンとライプツィヒに短期滞在した後、1930年4月8日から5月3日までコペンハーゲンにあるニールス・ボーアの理論物理研究所に滞在した。それ以来、ランダウは自身をボーアの弟子とみなし、彼の物理学への取り組みはボーアの影響を大きく受けた。コペンハーゲンでの滞在後、1930年中頃にはケンブリッジでポール・ディラックと共同研究した。イギリス滞在中、当時ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所にいたピョートル・カピッツァに出会った。カピッツァとの磁場中の自由電子に関する議論をもとに、ランダウ反磁性に関する理論を纏め上げた。コペンハーゲンに1930年9月から11月まで滞在した後、1930年12月から1931年1月までチューリッヒでヴォルフガング・パウリと研究した。チューリッヒからコペンハーゲンに三度戻り、1931年2月25日から3月19日まで滞在してレニングラードに戻った。
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