ナバス・デ・トロサの戦い
(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 06:16 UTC 版)
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語:Batalla de Las Navas de Tolosa、アラビア語:معركة العقاب)は、1212年7月16日にイベリア半島、現在のスペイン・アンダルシア州ラ・カロリナ内のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王アルフォンソ8世をはじめとするキリスト教(カトリック)諸国連合軍とムワッヒド朝カリフ・ムハンマド・ナースィルが率いるイスラム教諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。
- ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失ったカラトラバ騎士団・サンティアゴ騎士団など各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
- ^ アルフォンソ8世は普通のムスリム住民には寛容であり、カラトラバの町の住民に攻撃を予告して逃がしたために戦意を失ったフランス人騎士たちが帰国した。このフランス人たちに対する評判は悪く、帰路立ち寄ったトレドで彼等は市民から入城を拒否されたばかりか、石を投げられたり罵倒される有様で、従軍していたロドリゴはフランス人を痛烈に批判、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラも戦後に父から報告を受け取り、フランスへ嫁いだ妹ブランカに伝達した手紙で戦勝報告とフランス人の離脱を書き送っている。ローマックス、P172、P175、鈴木、P178、芝、P224。
- ^ 脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり通って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという。鈴木、P178。
- ^ フェルナンド3世のレコンキスタが進展した背景にはムワッヒド朝やタイファの内乱があり、それに上手く付け入り町の住民へ寛大な条件で降伏を勧める調略と武力を駆使したことで容易に都市奪取が出来た。カリフ候補者のアブドゥッラー・アーディルとアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシーの対立では1224年にバイヤーシーと兄弟のアブー・ザイドを臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃、バイヤーシーから協力の見返りにいくつかの都市を獲得した。1233年にはイブン・フードとグラナダ王ムハンマド1世の争いに乗じて、ムワッヒド朝に奪還されていたウベダを再占領、1236年にムハンマド1世と協力しながらコルドバを包囲して落とし、1243年のムルシア降伏でレコンキスタは順調に進んだ。1246年にムハンマド1世の臣従とハエン引き渡しも約束させ、1248年のセビリア陥落でレコンキスタは事実上の終結を迎えた。ローマックス、P188 - P190、P197 - P212、芝、P146 - P147。
- ^ ローマックス、P162 - P165、芝、P131 - P132、関、P113、P153、西川、P138。
- ^ ローマックス、P165、芝、P132、P193、西川、P138 - P139。
- ^ バード、P68、ローマックス、P165 - P166、芝、P132 - P134、P194、関、P153 - P154、西川、P139 - P140。
- ^ ローマックス、P168、芝、P134。
- ^ ローマックス、P168 - P169、芝、P137 - P138。
- ^ ローマックス、P169 - P170、芝、P138、西川、P140 - P141。
- ^ ローマックス、P170 - P171、芝、P138 - P139。
- ^ ローマックス、P171 - P172、芝、P139、西川、P141。
- ^ ローマックス、P172 - P173。
- ^ 芝、P139 - P140。
- ^ バード、P69 - P70。
- ^ ローマックス、P187、P191 - P192、P222、芝、P142 - P144、関、P115 - P116、P121。
- ^ ローマックス、P174 - P183、芝、P140 - P141、P144 - P146、西川、P142。
- ^ ローマックス、P188 - P216、芝、P146 - P148、関、P154、西川、P144 - P145。
- ^ ローマックス、P193 - P194、P202 - P203、芝、P146、関、P222 - P223、西川、P145 - P146。
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 15:20 UTC 版)
「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事における「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説
1198年、名君と謳われたマンスールが病死し、暗愚のムハンマド・ナースィルが後を継ぐと、アルフォンソ8世は1210年から休戦を破り再戦を開始した。1211年にカスティーリャ軍がアンダルシアを襲撃すると、ムワッヒド朝は報復に出てカラトラバ騎士団のサルバティエラ城(カルサーダ・デ・カラトラーバ近郊)を陥落させた。アルフォンソ8世は救援出来ず傍観、長男フェルナンドの死など痛手を負うも屈せず、決戦に向けて準備を進めていった。 翌1212年、トレドにペドロ2世・サンチョ7世らアラゴン・ナバラ軍、サンティアゴ騎士団とカラトラバ騎士団、インノケンティウス3世とトレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ(英語版)の勧誘で来た十字軍志願者らが集結した。アルフォンソ9世は参戦と引き換えに領土を要求してアルフォンソ8世に断られ、ポルトガル王アフォンソ2世との対立もあり両者は来なかったが、配下の騎士達は参加した。 アルフォンソ8世は混成軍を率いて6月に出発、セビリアから北上したナースィルのイスラム軍と7月16日に激突した(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)。イスラム軍は大軍だったが士気は低く、反対にキリスト教連合軍は士気が高いことが勝因となり、アルフォンソ8世はロドリゴやペドロ2世・サンチョ7世と協力してナースィルに大勝、戦後バエサとウベダを獲得、周囲の都市(ナバス・デ・トロサ、ビルチェス、バーニョス、フェラール)も奪い取りハエンを制圧、アンダルシアに迫った。連合軍に疫病が流行して間もなく引き返すしかなかったが、キリスト教勢力はグアディアナ川を越えてグアダルキビール川流域へ戦線を南へ拡大、アルフォンソ8世はこの勝利でイスラム勢力に対するレコンキスタの優位を確立したのである。 内政においてもコルテスを発足させ、1208年にパレンシアでスペイン初となる大学を建立している(パレンシア大学(英語版))。
※この「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説は、「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の解説の一部です。
「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」を含む「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事については、「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の概要を参照ください。
- ラス・ナバス・デ・トロサの戦いのページへのリンク