ヤード継走式輸送の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 15:13 UTC 版)
「日本の貨車操車場」の記事における「ヤード継走式輸送の衰退」の解説
1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションという社会的変化は進んでいた。その結果、旅客輸送・貨物輸送いずれにおいても自動車が台頭し、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していった。自動車に比べ小回りが利かず、駅で積荷の積替えを要すること、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不明確であること、さらに度重なる運賃の値上げ、労組間の対立に伴い頻発するストライキによる信頼低下などがシェア低下の要因だった。 ヤード継走式輸送は、貨車の取扱量が多くてこそはじめて威力を発揮し、輸送を効率化させる。しかし1970年以降、取扱量は大きく減少していた。さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、1969年(昭和44年)には東海道本線・山陽本線でコンテナ専用の特急貨物列車「フレートライナー」が登場したことで、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきた。 しかし国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進した。1974年(昭和49年)に開業した武蔵野操車場のようにコンピューター(yard automatic control system、略称「YACS」と呼ばれる)による貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車やカーリターダー(自動減速器。線路に設置される)、リニアモータ方式貨車加減速装置、ダウティユニット(線路内に油圧ジャッキ式のユニットを多数設置して貨車の速度を制御する)等を用いて省力化・高速化が図られたところもあった。近代化前の操車場では、貨車の突放や減速などは作業員が走る貨車の横につかまって調節するという危険なものだった(実際大勢の死者が過去に発生していた)ので、これは極めて画期的なことだった。他に、コンピューター化された操車場としては、郡山・新南陽・北上・塩浜・高崎が挙げられる。 しかし国鉄の貨物輸送が減少し、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまった。1978年10月2日国鉄ダイヤ改正や1980年10月1日国鉄ダイヤ改正では大幅に貨物列車が削減された。数々の効率化・合理化も空しく、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正をもって、ヤード継走式輸送は全廃された。その後全国の操車場の大半は廃止され、遊休地化するものも多かった。存続しても機関車交換などの信号所的な業務に大幅に縮小され、一部は広い敷地を生かし、周辺駅と統合されコンテナ輸送に最適化された現代型の貨物駅に生まれ変わった旧操車場もあった。 以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送のみとなった。しかし、この時点では車扱列車そのものは残存していたため、組成作業の必要は残されていた。国鉄はこうした操車作業を各地の臨海鉄道に移管するが、附近に代行可能な臨海鉄道がなかった富山貨物、新南陽、東小倉では操車作業を続けている。操車場そのものが不要になるには、途中駅で解結を行う車扱輸送がほぼ終了する2008年3月のダイヤ改正まで待たねばならなかった。
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