モンケ・カーンの南宋遠征とは? わかりやすく解説

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モンケ・カーンの南宋遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 00:01 UTC 版)

タガチャル」の記事における「モンケ・カーンの南宋遠征」の解説

即位果たしたモンケ東アジア遠征軍西アジア遠征軍組織し自身の弟であるクビライフラグそれぞれの総司令官とした。フラグ率い征西軍がジョチ家始めとする右翼(西方)の諸王家協力得ていたのに対しクビライ率い南征軍はタガチャル始めとする左翼(東方)の諸王協力得ていた。しかし南宋攻略方針巡ってモンケ・カーンとクビライ対立すると、モンケ南宋親征決定し併せてタガチャル左翼軍の総司令として起用しタガチャルモンケ率い本隊先行して南宋攻めることとなった。 この時のタガチャル率い軍隊には東方三王家よりカサル家当主イェスンゲカチウン家当主チャクラ、「左手五投下」よりジャライル部クルムシコンギラト部のナチンイキレス部のデレケイウルウト部のケフテイマングト部のチャガン・ノヤンが参加しており、実戦経験豊富な精強軍隊であった。しかし、1257年南宋有数軍事拠点である襄陽樊城攻囲した時、タガチャル率い遠征軍秋の長雨のため、或いはタガチャル自身怠慢のため僅か1週間襄陽樊城攻囲止めて撤退したタガチャルのこの撤退理由不明であるが、この前タガチャルの軍が人民の羊豕を掠奪したことに対して罪を問うたことが関係しているのではないか推測されている。 タガチャル撤退激怒したモンケ一時タガチャル遠征軍指揮官から更迭したものの、翌1258年初頭内モンゴルクビライ合流したモンケクビライとの会談南宋遠征計画手直しし改めタガチャル左翼軍の指揮官として起用された。新たな作戦案の下、モンケ軍が四川方面進軍しクビライ軍が鄂州進軍した対しタガチャル東方淮水流域山に攻め入って南宋軍を分散するよう命じられた。 同年11月タガチャルオゴデイ家のモンゲドゥと同時に一度モンケ本隊の下にやってきたが、これは新たな作戦案についてモンケが自ら口頭タガチャル打ち合わせるため、またタガチャル軍に属する「五投下」軍をモンケ本隊に移すためであった推測されている。モンケとの会談の後、タガチャルクビライ軍と邢州合流し、ここで左翼軍の統帥権クビライ委ねたその後タガチャルクビライ軍と分かれて東方三王家の軍のみを率い改め作戦目標である山への侵攻開始した。 しかしタガチャル引き起こした襄陽撤退事件」によって当初モンゴル軍南宋侵攻作戦大きく狂っており、当初の計画ではタガチャル軍が先行して実戦担当するはずが今回逆にモンケ率い本隊先行してしまい、四川方面熱病かかったモンケ病没してしまった。

※この「モンケ・カーンの南宋遠征」の解説は、「タガチャル」の解説の一部です。
「モンケ・カーンの南宋遠征」を含む「タガチャル」の記事については、「タガチャル」の概要を参照ください。

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