マラーター勢力の台頭とマラーター王国の成立
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「マラーター王国」の記事における「マラーター勢力の台頭とマラーター王国の成立」の解説
マラーターは中世に勃興した新興カーストであり、バフマニー朝やその後に分裂したデカン・スルターン朝のもとで傭兵として活躍した。また、マラーターの豪族は郷主つまり行政官として各王朝に認められ、その領土は封土として与えられた。 17世紀初頭、ムガル帝国がデカン・スルターン朝の一つアフマドナガル王国の領土に侵入するさなか、1627年にマラーター王国の祖たるシヴァージーはプネーの郷主シャハージーの息子として誕生した。 1633年6月にはムガル帝国は王国の首都ダウラターバードを落としたが、シャハージーは幼王ムルタザー・ニザーム・シャー3世を擁して抵抗を続けた。しかし、その抵抗もむなしく、1636年2月にシャハージーはムガル帝国の軍に敗れ、ムルタザー・ニザーム・シャー3世を引き渡した。 その後、シャハージーはアフマドナガル王国を支援していたビジャープル王国へと亡命し、プネーとその近郊マーヴァルに領土を与えられ、首都ビジャープルの宮廷に出仕することとなった。そのため、シヴァージーは幼少期、母のジジャー・バーイーに養育されて育つこととなった。 成長したシヴァージーは多くの仲間を集め、1645年以降から王国に公然と反抗するようになり、1659年までにコンカン地方一帯をほぼ制圧した。同年、ビジャープル王国は大軍を派兵したが、11月に討伐軍の主将アフザル・ハーンをはじめとして多くの死者を出して敗退した。 1657年以降、シヴァージーはムガル帝国に目をつけ、皇位継承戦争に乗じてその領土を襲撃した。1658年にアウラングゼーブが帝位についたのちも襲撃をかけ続け、帝国が派遣したシャーイスタ・ハーンを悉く打ち破り、帝国の重要都市スーラトを略奪した(スーラトの戦い)。 1664年、事態を重く見たアウラングゼーブは、帝国の武将でありアンベール王国の君主ジャイ・シングをシヴァージーの討伐に向かわせた。ジャイ・シングは次々とマラーター側の城塞を奪い、1665年6月にシヴァージーは帝国有利の条件で講和を結んだ(プランダル条約)。 1666年5月、シヴァージーは息子サンバージーとともにアウラングゼーブにアーグラで面会したが、折り合いがつかず、幽閉されてしまった。だが、彼らは城兵の油断した隙をついて脱出、本拠ラーイガドへと帰還した。 その後、両国の関係は概ね平和であったが、アウラングゼーブがヒンドゥー教の弾圧を強めたため、シヴァージーはプランダル条約を事実上破棄した。1670年1月以降、シヴァージーは帝国領へと襲撃を掛け、10月にスーラトを再び略奪し、その領土を徐々に回復していった。 そして、1674年6月にシヴァージーはラーイガド城において即位式を行い、大勢のバラモンを集め、マラーター王国の樹立を宣言した。デカン地方は14世紀初頭にデリー・スルターン朝の支配におかれたのち、バフマニー朝やデカン・スルターン朝の支配におかれており、ヒンドゥー王朝が樹立されたのはじつに3世紀ぶりだった。 その後、1678年にシヴァージーは弟のヴィヤンコージーが建国したタンジャーヴール・マラーター王国へと軍を進め、ヴィヤンコージーと争って、その領土を実質的に支配した。
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