ホイッグ党の一員として
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「ジョン・グロバム・ハウ (1657-1722)」の記事における「ホイッグ党の一員として」の解説
1683年の結婚で領地を得て、1687年にはサイレンセスター選挙区(英語版)で野党候補の1人として噂された。1688年の名誉革命の後、1689年イングランド総選挙でサイレンセスター選挙区から出馬して当選、議会におけるホイッグ党急進派の1人になった。同年にストーウェル(英語版)の地所を購入したほか、同年ごろにグロスタシャーの治安判事に就任、同年にグロスタシャー副統監とモンマスシャー副統監に就任した。議会では法案委員会など議会事務への関与が少なかったが、1689年仮議会の初日より頻繁に議会で演説、名誉革命を熱烈に支持した。これにより同年4月22日にメアリー2世の宮内副長官(Vice-chamberlain)に任命された。ウィリアマイト戦争のロンドンデリー包囲戦(英語版)(1689年4月 – 8月)でイギリス海軍による救援が一時失敗に終わると、6月1日にこの失敗をめぐる弁論で「ジェームズ王の枢密院にいた人物で(ジェームズに)悪い助言を与えた人物はウィリアム王の顧問官として適格ではない」(these men, who formerly gave the ill counsel, and were of the Privy Council to King James, [...] are not fit to be counsellors to King William)と述べ、全員解任すれば事態が改善すると主張し、ウィリアム3世からの説得を受けても主張を曲げなかった。さらにジェームズ2世の治世で顕職にあった人物への刑罰法(Indemnity Act)やカトリック陰謀事件を捏造したタイタス・オーツ(英語版)の有罪判決取り消しも支持した。 1690年イングランド総選挙ではサイレンセスター選挙区での再選を目指した。ハウ以外ではもう1人の現職議員トマス・マスター(英語版)が不出馬、伯父の息子にあたるリチャード・グロバム・ハウ(トーリー党所属)と1689年仮議会の議長(英語版)ヘンリー・ポール(英語版)(ホイッグ党所属)が出馬した。ポールとリチャード・グロバム・ハウは選挙協力を合意し、リチャードは2人の協力を宣伝したが、ポールは同じくホイッグ党に属するジョン・グロバム・ハウとの選挙戦をためらってリチャードとの協力を宣伝しなかった。ジョンの人気が先行していたため、リチャードは状況を悲観視して、父が別の選挙区で当選させると打診したこともあって2月18日に撤退を宣言したが、ジョンはこれを聞いて選挙戦に資金を投入しなくなった。さらに有力者の第2代ニューバラ伯爵チャールズ・リヴィングストンがサイレンセスターに到着したため、リチャードは再び選挙戦に臨むことを決意した。 投票の結果はジョンが409票、リチャードが340票、ポールが323票を得たが、投票の様子は「(投票を)申し出た人物が全員無差別に受け入れられた」(all persons that offered themselves, promiscuously)と混乱しており、無効票が含まれたことは明らかだった。ジョンの支持者は教区の援助金を受け取らず、サイレンセスターの「by-money」と呼ばれるチャリティー援助金を受け取った人物にも投票権があると主張したが、選管チャールズ・コックス(英語版)(トーリー党所属)はこの主張を受け入れず、リチャードとポールの当選を宣告した。ジョンは1690年3月に選挙申し立てを提出して、コックスの不公正を告発したが、申し立てが審議されなかったため同年10月に再び申し立てを提出した。2度目の申し立ては10月22日に庶民院の選挙委員会で審議され、委員会はby-moneyのみ受け取った人物に投票権がないと裁定、さらに宿泊人(inmates)の投票権も否定して、有権者を家主(householders)に限定した。ジョンの申し立てが失敗するように見えたが、ジョンは委員会が報告を提出する直前に議員にビラを配り、たとえ無効票が除外されてもジョン252票、リチャード235票、ポール231票になるため、やはり自身が当選すべきであると主張した。そして、11月4日に選挙委員会が報告が提出すると、長い弁論が行われ、結局有権者を家主に限定することが可決され、11月25日にジョンとリチャードの当選が確定した。 1691年に議会でホイッグ党による枢密院議長初代カーマーゼン侯爵トマス・オズボーンと南部担当国務大臣第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチなどの大臣を攻撃、11月初には大同盟戦争におけるイギリス海軍の失態をめぐり「内閣委員会」(Cabinet council)を憲法違反の秘密組織であると批判した。国王ウィリアム3世がさらなる政権攻撃を危惧して介入してきたため、11月7日にエドワード・ラッセル提督の行動が審議にかけられたとき、議場が長い沈黙に包まれ、ハウは「誰も言いたいことがなかったため、失策はなかったと結論付けるべき」(since no one had anything to say, it should be resolved that no miscarriages had occurred)と動議を提出せざるを得なかった。一方で軍への資金提供においては宮廷を支持し、陸軍士官の定員削減に反対した。
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