ホイッグ党の政略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 01:35 UTC 版)
名誉革命は1688年に起こったが、すべての人々に支持された革命ではなく、議会が王位継承問題にまで口出しすることの正当性を疑問視する声も小さくなかった。こうした言説は主にトーリー議員たちから発せられた。さらに相次ぐ国内・国外の武力衝突など、名誉革命後の権力体制は盤石とはほど遠い状態にあった。革命を支持する人々は、革命を称揚し、反対勢力を封じ込める必要に迫られていた。 そこで政権は、敵対国フランスなどカトリック勢力とジャコバイトを結びつけ、イギリスの共通の敵というキャンペーンを張った。とりわけウォルポールは政敵に「名誉革命体制の転覆を狙う危険分子」というレッテルを貼りつけ、異端化することにより、20年以上にわたる長期政権の安定を得た。 こうしたキャンペーンは、ジャコバイトに同情的であった人々をも変化させていった。ジャコバイトと見なされることは政治生命にかかわることになり、たとえステュアート家に想いを寄せていても、それを公言することはできなくなっていった。政治家たちの対立軸は名誉革命体制対ジャコバイトから、どちらがより名誉革命体制の忠実な後継者であるかを争う図式となっていき、結果的に名誉革命体制は強化され、ジャコバイトの存在感は急速に薄れていった。そして、議会内の対立構図はホイッグ対トーリーからコート対カントリという図式も交え、複雑に交錯してゆくことになった。
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