ヘルダーリンの遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「ヘルダーリンの遺産」の解説
ハイデッガーはヘルダーリンについての論文を5篇書き、しばしば引用もしている。ヘルダーリンは本質的名前付けと存在の諸領域(世界と大地と神々)を探索しているように見えた。それ故、ハイデッガーはヘルダーリンこそ「存在を知る人」だと感じていた。ハイデッガーの思索はこの詩的権威を必要としていた。ハイデッガーは世俗の神学と哲学的な詩論を同時に構築しようとし、異教とキリスト教の廃墟に隠れた神性は既存の正統的な宗教のいずれにも馴染まず、ヘルダーリンと同様に彼自身も名前のない新たな神を求めた。キリスト教にせよその他の宗教にせよ、すぐに想起されるそれまでの名前では新たな神を呼び出すことは出来ない。しかし、何故そんな神が必要なのか。 本質的な言葉(名前を付け、存在を確立する言葉)は絶えず「唯一にして同一のもの」に、即ち、単一の点に関連づけられなくてはならない。 これは「不断で永久的」なものと理解する必要がある。つまり、変化しうる如何なるものより先行する。ハイデッガーのいう「神性」の概念はこの条件を満足する。 ヘルダーリンは存在の秘密(顕すことが同時に隠すことを保持するパラドックスで、論理学を揺るがすあの謎)を知っていたかのようにみえる。ハイデッガーはアルプスを越え、故郷シュヴァーベンを目指す詩人の旅を描いた1802年のヘルダーリンの詩『帰郷(Heimkunft)』をもとに、1944年に『詩人の追想』という題で論文を書き、ヘルダーリンのテーマを膨らませている。ハイデッガーはこの詩を光の言葉で語られた「喜ばしさ(Freudiges)」であるとする。光のさらに上にあるものを本質的な「喜ばしさ」としたうえでこれを「晴朗さ(die Heitere)」と呼んだ。詩人が帰郷するということは喜ばしいものに接近しているという幸せな状態から離れることにならないのか。ハイデッガーはそう考えず 接近というのは、二つの間の距離として最も短いわけではない。接近によって近さは近くなるが、同時に、その場所を求めるという意味で近さを近くなくする。接近は「近さと距離を置きながら」近さを近くする。接近は謎だ。……近さは近くて遠い。遠いものとしての近さは退き、隠れている。……しかし、近さが部分的に隠れていなければ近さではなくなる。そこに近さの謎がある。
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