ブルボン朝の財政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて立憲君主制に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設されたイングランド銀行が発行する英国債に対して国際金融センターであったアムステルダムなどから投資が集まっていた。また、市民革命の過程で特権団体であるギルドが解体しており、企業家の形成や工業化が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。奢侈の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。1682年には、パリからヴェルサイユへと都を移し、以降、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の中で政治を行なった。また王権神授説を信奉するルイ14世は、1685年にナントの勅令が廃止し(フォンテーヌブロー勅令)、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた。また、聖職者・貴族といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対プロイセン抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる外交革命が起こった。
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