フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで
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「ルイ17世」の記事における「フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで」の解説
1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。このときルイ=シャルルは6歳だった。 タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語、フランス文学、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いした。この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした[出典無効](この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死している)。 1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳!(フランス語版)」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。1月28日、ヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。しかし、ルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。
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