バル・コクバの乱
バル・コクバの乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 07:18 UTC 版)
「アエリア・カピトリナ」の記事における「バル・コクバの乱」の解説
132年、ユダヤ教の律法学者アキバ・ベン・ヨセフによってそのカリスマ性を見いだされたバル・コクバは、自身をメシヤ(救済者)と称し、ユダヤ人を率いてローマへの反乱を起こした。これをバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)という。ユダヤ各地で戦いが起こり、反乱軍はエルサレムを占領、ローマ軍はカイサリアへの退却を余儀なくされた。この勝利を得てバル・コクバは「エルサレム解放」を誇示する新硬貨を発行する。ただ考古学的には反乱軍がエルサレムを完全に奪還したという形跡を発見できてはおらず、主に山岳地帯や荒野におけるゲリラ戦を展開していたと推測される。 しかし、ローマよりセクストゥス・ユリウス・セウェルスの軍が派遣されると戦局は逆転し、かつての戦争時にティトゥスが取った各個撃破が再び行われ、戦争から4年目の135年バル・コクバはエルサレムを放棄。南西に位置する最後の拠点ベートテル(ベタル)に移り最後の抵抗を試みるも、兵糧をたたれ同年「アブの月の9日」、ついに陥落。反乱軍は殺戮され、生存した者も多くは奴隷として売られた。奴隷の供給量が急増したために、安値で取引された。バル・コクバは戦死。ラビアキバは捕縛され、のち処刑された。『ローマ史』を著したカッシウス・ディオによると58万人にのぼるユダヤ人が戦死した。ローマ軍も大きな損害を被り、ハドリアヌスは元老院に宛てた報告書に本来定型文であるはずの「余と余の軍隊は健在なり」の語を用いなかった。 戦役の収束後、ローマはユダヤ人に対して熾烈な弾圧を以て報いた。先述の奴隷化の他土地没収、人頭税の徴収。ユダヤ人は「かつてエルサレムと呼ばれた街」へ立ち入ることは許されず、それを破れば死罪となった。ただし、のちに年に1度アブの月9日だけ金を払うことで立ち入りが許されることになった。そしてユダヤ人達は、神殿の痕跡をわずかに伝える嘆きの壁を前にして泣いたのである。
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