ハルキウ州
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ハルキウ州(ハルキウしゅう、ウクライナ語: Харківська область ハールキウスィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの州の一つ。州都はハルキウ。なお、ハリコフ州(ロシア語: Харьковская область)という日本語名はソビエト連邦時代の公用語であったロシア語名に沿ったものである。ウクライナ語名では「ハルキウ州」となるが、日本ではロシア語名が用いられることも多く、またウクライナ語名をロシア語読みしたハルキフ州という表記も見られる。ロシアと国境を接し、またロシア人の入植が活発に行われた結果であるとされる。
- ^ “ウクライナ東部 各地で共和国樹立宣言”. 日テレニュース (2022年4月8日). 2022年9月11日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- 1 ハルキウ州とは
- 2 ハルキウ州の概要
- 3 地理
- 4 脚注
ハルキウ州
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「2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「ハルキウ州」の解説
ハルキウ州でも抗議行動が行われ、州庁舎が幾度も占領された。 最初にハルキウ市で騒乱が起こったのは2014年2月22日、ユーロマイダンの抗議者が同市の州庁舎を占領した時だった。その日遅くに数千人の抗議者が、州庁舎向かいに立つ自由広場のウラジーミル・レーニン像を倒そうとよじ登った。この時は数人のタクシー運転手がその記念像を擁護し、翌日までに数千人の親露派抗議者が像を守るために広場に集結して、周囲に境界フェンスを設置した。 その後ハルキウ州知事はこの像が我が町の象徴だとする演説を行い、現地警察は3月1日までユーロマイダンとアンチマイダン抗議者とが接近しないようにした。3月1日に親露派活動家は州庁舎を急襲し、そこを占拠していたユーロマイダン活動家を襲撃、建物の上にロシア国旗を掲げた。現地メディアによると、2,000人のロシア人が州庁舎の急襲に参加するためハルキウに輸送されていた。ロシアの活動家組織は、ハルキウで「平和的に抗議」するために自分達がロシア人を派遣したと公言した。警察は同日夕方までに建物の支配権を取り戻し、ロシア国旗をウクライナの旗に換えた。 ハルキウでの親ロシア派活動家や親ウクライナ派活動家によるデモは、3月を通して続いた(これには親露派で最大5,000人の集会と、親ウクライナで最大10,000人の集会が含まれる)。それでも、この都市はウクライナ民族主義者と親露派活動家間の銃撃戦で2人が死亡する3月15日まで、比較的平穏を保っていた。その翌日、親露派活動家がハルキウのウクライナ文化センターに押し入り、ウクライナ語の書物を持ち去って路上で焼いてしまう事件が起こった。 4月6日、親露派抗議者が州庁舎を襲撃して占拠した。その翌日、占拠した州庁舎の抗議者達は「ハリコフ人民共和国」としてウクライナからの独立を一方的に宣言した。ただし彼らは最初に市役所だと信じこんでオペラ・バレエ劇場を襲撃したため、抗議者が現地出身者なのかという疑問が提起された。4月8日までに州庁舎はウクライナの特殊部隊によって奪還され、抗議者70人が逮捕された。4月13日、親露派抗議者1,000人が州庁舎の周囲で集会し、幾人かが中に入った。その抗議者達はその後ハルキウ市長と共に建物内に立て籠った。その日遅く、市長は自治を求める住民投票への支持と逮捕されたハルキウ分離主義者に対する恩赦を宣言した。同時デモを行っていた少なくとも50人の政府支持派の抗議者達が親露派抗議者達による襲撃でひどく殴られ、ビデオに当時の様子が克明に記録されている 4月19日のOSCE監視団の報告によると、4月13日以降は州庁舎の前で抗議者を見かけなかった。4月17日のハルキウ市控訴裁判所の法廷では、4月8-9日の州庁舎奪還を受けて当局に逮捕された抗議者65人中43人が拘留継続になるとの判決が出された。このほか16人は自宅軟禁に変更されるなどしたため、保釈された拘留者は3人だった。 4月19-20日の週末、ハルキウは平穏だったものの自由広場でにて小規模かつ平和的な親露派の抗議行動が行われた。自由広場でのデモは継続され、4月21日には500人が集まって「人民政府」を選出した。ウクライナの経済状況悪化がデモの原動力となっており、 彼らは市長と検察官の辞任それからビクトル・ヤヌコビッチの復帰を求めた。「人民知事」にはウラジーミル・ワルシャフスキーが選出された。 4月23日、反政府デモと親政府デモ双方の平和的な集会がハルキウ市内中心部で行われた。それぞれの集会に約400人が参加した。その日遅く、7,000人以上の住民がウクライナの統一国家および領土一体性を支援するために同じ場所で集会を開いた。ハルキウの状況は全体的に平穏だったが、警察は引き続き厳重な警戒を続けた。 ウクライナ統一国家の支持者と反対派による対決デモは、ハルキウ市で4月27日に行われた。この結果、反対派約400人とウクライナ政府支持者500-600人との間で衝突が起きた。警察はこの騒乱を鎮圧しようとしたが上手くいかなかった。
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