ディアフィールド
ディアフィールド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:15 UTC 版)
「ディアフィールド奇襲」の記事における「ディアフィールド」の解説
1675年には、ディアフィールドは200人ほどの人口となっていた。この年、ニューイングランド南部の、入植者とインディアンとの間で起こった戦闘がもとで戦争が勃発した、現在はフィリップ王戦争として知られる戦争である。この戦争はニューイングランド植民地全土を巻き込み、入植地が破壊され、あるいはインディアン部族の激しい減少そして和解という結果を生み出した。 ディアフィールドは、イングランド系住民の居住地の端の比較的孤立した所にあり、1675年の9月に、一連の組織だった攻撃で、村の大人の男の約半数が戦死した。後にブラッディ・ブルックの戦い(英語版)と呼ばれるこの戦闘がもとで、人びとが村を立ち退いて行った。他にもコネチカット川に沿って、イングランドからの入植者が置き去りにした村がいくつかあり、そういう場所は、一時期、敵対する同士のインディアンが再び占領していた 。入植者たちは再び結集し、1676年に、殆どが入植者による軍で、ペスケオムプスカット(Peskeompscut)と呼ばれていた場所の、インディアンの宿営を襲って虐殺(英語版)した。この場所は今はターナーズ・フォールズと呼ばれている。この戦いで殺されたイングランド系住民の指導者、ウィリアム・ターナーにちなむものである。 モホーク族による襲撃が進む中、他のインディアンの部族は、北のヌーベルフランスや、西への退却を余儀なくされた。西へ退却した部族は、ニューヨーク植民地当局とある種の和平を築いた。ウィリアム王戦争中(1688年-1697年)ディアフィールドは大規模な攻撃の標的とはされなかったが、村人のうち12人が、一連の待ち伏せや小さなもめごとの犠牲になった。ポコムトゥクは友好的といわれた部族だったが、この地域を去り、他の辺境地帯への攻撃に参加して、奇襲を働くようになったと考えられている。 1703年、アン女王戦争の勃発とともに、現在のメイン州南部の辺境地帯への攻撃が起こり、ディアフィールドの住民は再び警戒態勢に入った。ウィリアム王戦争の時に作られた、町の防御柵が、修復され、拡張された 。この年の8月、地元の民兵隊の指揮官が、「毎時コネチカット川沿いの防御柵に攻撃を仕掛けている」「カナダからのフランスとインディアン部隊」の情報を得た後、民兵を招集した。その後すぐは何も起こらなかったが、10月に、柵の外の牧草地で2人の男が拉致された。兵たちはこの攻撃に応じて町の守りについたが、冬の到来とともに帰宅した。冬に戦闘が起こるとは考えていなかったからだ。 他の町への小規模な襲撃が起こったため、マサチューセッツ湾総督のジョセフ・ダドリーは、2月に20人の民兵をディアフィールドに駐屯させた。この兵たちは、他の町で最低限の訓練を受けただけで、24日までに到着し、28日の夜に、町の防御柵の中に、多少狭苦しい避難用の住居を建てた。民兵に加え、70人ほどの、徴兵年齢の住民が召集された。彼らを指揮するのは、大尉のジョナサン・ウエルズだった。
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