奇襲部隊の組織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:15 UTC 版)
「ディアフィールド奇襲」の記事における「奇襲部隊の組織」の解説
コネチカット川流域は、早くも1702年には、ヌーベルフランス当局による襲撃の可能性があると特定されていた 。奇襲軍は、早くても1703年5月には、モントリオールの近くに集まりはじめていた、それはイングランドの機密情報の報告書に正確に記載されており、信用が置けるものだった。しかし、襲撃の実行までに2つの事件があったため、実行が遅れていた。最初の事件は、セントローレンス川のイングランドの艦隊からの防御のために、ケベックはインディアンを集めて大軍を作ろうとしているというもので、これは噂にすぎなかった。2番目は、イングランド相手にいくつかの分権隊を送り込むもので、これにはまさに、奇襲の首謀者であるジャン=バティスト・エルテ・ド・ルーヴィユが含まれていた。ルーヴィユは、メインでの奇襲でも指揮を執っており、その中にはウエルズの奇襲もあった。これにより、ディアフィールドの危機感が高まった。ルーヴィユは秋になってから、モントリオールに戻って来た。 奇襲部隊は、モントリオールのすぐ南のシャンブリ(英語版)に集まった。その数約250人で、顔ぶれは様々だった。フランス人が48人いた。うち何名かは民兵、それ以外は海兵隊からの徴集で、ルーヴィユの兄弟4人もその中にいた。指揮を執るのは、何人かの、20年以上もの野戦経験がある者たちだった。インディアン兵は、200人のアベナキ族、イロコイ族、ワイアンドット族、そしてポコムトゥク族(英語版)をはじめとした派遣団で、かつての小競り合いの仕返しを企んでいる者もいた。別に、30から40人のペナクック族(英語版)が、族長ワッタヌモン(Wattanummon)に率いられていた。この部族は1704年の1月から2月にかけ、ディアフィールドの南に移動しており、規模を300人近くにまで増やしてから、2月の終わりにディアフィールドに戻ったのだった。 奇襲部隊の出発の秘密はきちんと守られなかった。1704年の1月、ニューヨークでインディアンの代理業を営むピーター・シュイラーは、今後起こるであろうことについて、イロコイ族から警告されていた。シュイラーはこの件を、ジョセフ・ダドリーと、コネチカット植民地総督のフィッツ=ジョン・ウィンスロップ(英語版)に送った。2月半ばにはさらなる警告が2人の総督に届いたが、誰も、彼らがどこを標的にしているのか、はっきり把握していなかった。
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