チリ・クーデターとピノチェト時代とは? わかりやすく解説

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チリ・クーデターとピノチェト時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)

チリの歴史」の記事における「チリ・クーデターとピノチェト時代」の解説

詳細は「チリ・クーデター」を参照 こうした社会的混乱の中で、アジェンデは軍への人事介入行いとりわけ空軍反発していた。1973年9月11日アメリカ合衆国後援受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会クーデター起こしてモネダ宮殿攻撃すると、降伏拒否したアジェンデ自殺しチリ社会主義体制崩壊した。翌1974年ピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制敷いた。 このピノチェト軍政治安作戦苛烈極め、軍内の死の部隊秘密警察DINA英語版)」によるコンドル作戦汚い戦争一種)により、人民連合派をはじめとする多く反体制派市民弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体調査によれば約3万人チリ人作戦によって殺害され数十万人各地建設され強制収容所送られた。国民10分の1に当たる100万人が国外亡命し失業率22%、さらには国民4分の1GNPが全くなくなるという異常事態招きながらも、軍事政権ミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人「チリの奇跡」呼び賞賛したが、実際には、1960年代には4.5%を記録していたGDP平均成長率は、経済政策導入後1974年1982年GDP平均成長率1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代ラテンアメリカ平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年1980年におけるチリ人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体人口あたりのGDP成長率40%よりも低かったまた、1973年には4.3%であった失業率10年間で22%に上昇貧富の差急激に拡大し貧困率アジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期シカゴ学派政権から追いケインズ政策導入し軌道修正図ったその結果貧困層収入は3割増し、また貧困層割合アジェンデ時代45%から30%にまで低下した詳細は「チリ民政移管スペイン語版英語版)」を参照 しかし、アルゼンチンボリビア1982年)や、ウルグアイ1985年)、ブラジル1985年)と周辺国民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権国際的な批判呼び1988年ピノチェト信認選挙en)で敗北すると、1989年12月行われた総選挙en)で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシア構成する中道キリスト教民主党パトリシオ・エイルウィンが、ピノチェト派の候補僅差勝利したことにより、1990年チリ17年ぶりに民主的な文民政権移管することになった

※この「チリ・クーデターとピノチェト時代」の解説は、「チリの歴史」の解説の一部です。
「チリ・クーデターとピノチェト時代」を含む「チリの歴史」の記事については、「チリの歴史」の概要を参照ください。

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