ダム事業の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 23:49 UTC 版)
「大野ダム (京都府)」の記事における「ダム事業の再開」の解説
日本の敗戦により舞鶴海軍工廠への電力供給という最大の目的が喪失した大野ダムは、極端な物資不足も相まって終戦後事業は白紙状態となった。しかし由良川の河川改修はダム計画成立前よりもひどくなっていた。河川改修が全く進捗しないだけでなく戦中の森林乱伐によって由良川上流の森林は破壊され、保水力は極端に低下していた。このため治水安全度は皆無に近い状況の中で1945年10月由良川流域を集中豪雨が襲い、福知山市より下流では屋根にまで達する床上浸水の被害が多発した。 この洪水を機に由良川水系の治水計画が再検討され、洪水時に記録した最大流量を計画高水流量として河川改修を進める方針が内務省解体後河川行政を継承した建設省によって立てられた。福知山市地点の計画高水流量を毎秒4,100立方メートルとして新規治水事業で毎秒3,100立方メートルに抑制する由良川改修全体計画が1947年(昭和22年)に定められた。この計画で堤防整備に加え一旦白紙になった大野ダム計画が持ち上がり、ダム地点の計画高水流量毎秒2,000立方メートルをダムで毎秒600立方メートル洪水調節して下流には毎秒1,400立方メートルに抑制する方向で検討され、合わせて戦後の電力不足解消を図るため水力発電も従来通り付加することとし、調査の結果最大で1万1,000キロワットの発電がダムによって可能と判断されたことで洪水調節と水力発電の二目的を以ってダム計画が1949年(昭和24年)に再度浮上した。 ところが、淀川を始め近畿地方の河川に致命的な氾濫をもたらした1953年(昭和28年)9月の台風13号は由良川を再度暴れさせた。この時の洪水は福知山市で由良川改修全体計画で定めた計画高水流量を大幅に上回る毎秒6,500立方メートルの洪水となり、由良川流域だけで死者・行方不明者120名、家屋流失・全壊3,013戸と福知山市や綾部市などに再び甚大な被害を与えた。台風13号の被害を受け由良川改修計画は再検討を余儀なくされ、福知山市での計画高水流量を台風13号時に記録した毎秒6,500立方メートルに高直しした上で大野ダムはダム地点の計画高水流量を毎秒2,400立方メートルと毎秒400立方メートル上積みし、ダムの洪水調節量を毎秒1,000立方メートルと拡大させて下流へは従来計画と同じ流量に抑制する方針とした。こうした経緯を踏まえて大野ダムは改めて多目的ダム事業として計画が整い国直轄ダム事業として1951年(昭和26年)10月より建設省近畿地方建設局より計画構想が発表され、1954年(昭和29年)には工事事務所が発足しダム建設に必要な資料を収集する実施計画調査が開始された。
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