タンネンベルク‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【タンネンベルクの戦い】
タンネンベルクの戦い
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タンネンベルクの戦い(タンネンベルクのたたかい)
- 1 タンネンベルクの戦いとは
- 2 タンネンベルクの戦いの概要
タンネンベルクの戦い
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「マックス・ホフマン」の記事における「タンネンベルクの戦い」の解説
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東プロイセンの防御を担当する第8軍の参謀に任命された。シュリーフェン・プランに基づいて、まずは西部戦線に戦力を集中したドイツにとって、ロシア軍が予想以上に早く兵士の動員を完了させたことは大きな脅威であった。東プロイセンを防衛するために配置されたのは第8軍の1個軍のみであり、ロシアの第1軍および第2軍を相手にしなければならなくなった。 ロシア軍はグンビンネンの戦いにおいてドイツ軍に初戦での勝利を収め、プロイセンへの侵入を開始した。圧倒的な規模を誇るロシア軍に恐れをなした第8軍司令官マクシミリアン・フォン・プリトウィッツ(ドイツ語版)は、全部隊のヴィスワ川までの撤退を命令した。この方針によって東プロイセンが放棄されることを知ったドイツ参謀本部は、プリトウィッツを免職し、新たな司令官にパウル・フォン・ヒンデンブルクを、さらに参謀長としてエーリヒ・ルーデンドルフを任命した。 新たな司令部が到着するまでの間に、ホフマンは無電傍受から重要な事実をつかんでいた。東プロイセンの東と南から進撃しているロシアの2個軍は、互いにほとんど意思疎通を行っていなかったのである。この理由として、それぞれの軍の司令官アレクサンドル・サムソノフとパーヴェル・レンネンカンプが個人的に険悪な仲であり、日露戦争中には奉天駅前で殴り合いをしたこともあるなどという風説が存在する。 ホフマンは東方の第1軍を放置して、南から進撃するサムソノフ率いる第2軍を包囲する計画を立案した。この計画は司令部に到着したヒンデンブルクとルーデンドルフによって承認され、実行に移された。続いて発生したタンネンベルクの戦いにおいてロシア第2軍は壊滅的な打撃を受け、サムソノフは戦場で自殺した。 この戦いに勝利した第8軍は、東プロイセンに張り巡らされていた鉄道を利用して部隊を再配置し、第1軍を攻撃した。第一次マズーリ湖攻勢によってロシア第1軍はプロイセンから撤退し、開戦初頭のドイツの危機は間一髪の所で回避されることになった。
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タンネンベルクの戦い
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「エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「タンネンベルクの戦い」の解説
東部戦線でプリトヴィッツ上級大将率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には既に退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が就任し、ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任したこの二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けたが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であった。 ルーデンドルフは8月23日夜にマリーエンブルクの第8軍司令部に着任し、先任の第8軍作戦参謀マックス・ホフマン中佐とともに反撃作戦を指揮した。損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かないことを電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、またタンネンベルク付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各軍団・師団をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。8月26日にドイツ第8軍はロシア第2軍に攻撃を開始し、フランソワ大将率いる第1軍団は左翼から、マッケンゼン大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲することに成功した。ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国することが出来たのはわずか1万7000人だった。 西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。ロシア第1軍司令官レンネンカンプは第2軍の二の舞になることを恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退した。ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失った。こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われたタンネンベルクの戦いはドイツ軍の大勝利に終わった。
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