タンネンベルク以後
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「マックス・ホフマン」の記事における「タンネンベルク以後」の解説
ヒンデンブルクとルーデンドルフの2人が1916年に参謀本部の総長・次長となった後は、東部戦線ではバイエルン王太子ループレヒトが総司令官、ホフマンがその参謀長に任命された。ホフマンはオーストリア軍を含めた全部隊の作戦計画を策定し、ブルシーロフ攻勢を除いては東部戦線における数々のドイツ軍の勝利に貢献した。ロシア革命の結果、ロシアの政権を握ったボルシェヴィキとドイツとの講和条約であるブレスト=リトフスク条約においては、ホフマンがドイツ側の代表を務めた。それに対するボルシェヴィキの代表はレフ・トロツキーであった。ドイツの敗戦が決定した1918年12月には東部戦線からの部隊撤収を早々に決定し、ポーランド・ソビエト戦争の原因を作ることになった。 戦後の回想において、ホフマンはドイツ軍司令部を批判している。その矛先はヒンデンブルクとルーデンドルフにもおよんだが、これはタンネンベルクとマズール湖の勝利が彼ら2人の功績とされ、ホフマンの名は取り上げられなかったことが理由の1つである。 ホフマンは1927年7月8日にバート・ライヒェンハル(ドイツ語版)で死去した。 典拠管理 BIBSYS: 90553359 DTBIO: 124376355 FAST: 492031 GND: 124376355 ISNI: 0000 0001 1066 3789 J9U: 987007284379205171 LCCN: nb2003032763 NTA: 068325878 PLWABN: 9810689224505606 SELIBR: 278122 SUDOC: 099244969 VIAF: 62479621 WorldCat Identities: lccn-nb2003032763
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