スエズ危機と中東
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:06 UTC 版)
「第二次中東戦争」および「中央条約機構」も参照 1956年7月、エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言し、同地を長年にわたって支配してきた英仏両国はイスラエルと共に派兵を行った。エリザベス女王は、個人的には派兵に反対だったが、立憲君主制における立場をわきまえ、最終決定をイーデン首相に委ねたとされる。 エジプトの降伏を目前に、米ソを含む国際世論の激しい批判により、国連緊急総会により停戦が議決(総会決議997)されて11月6日に英仏が、8日にイスラエルが停戦に従った。その結果、英国はスエズでの権益を喪失しただけでなく、米国の欧州に対する優位性が明確になり、英国の威信は大きく傷つくこととなった(第二次中東戦争/スエズ危機)。敗戦の責任を受け、翌1957年1月8日と9日にイーデンは退任の意向を女王に表明し、その際に女王はイーデンから次期首相に関する意見を徴したとされる。 悪化した英米関係の回復のため、女王はジェームズタウン入植350年記念として、1957年10月17日に訪米してドワイト・D・アイゼンハワー米大統領と友好関係をアピールすると、女王帰国と入れ違いにハロルド・マクミラン首相が訪米した。 また、英国の威信低下を前に、イラン国王パフラヴィーは、ソ連がエジプトに接近する中で、反共産主義陣営の一角としての存在感を高めるようになった。スエズ危機でも、イランはイギリスを一貫して支持しており、英外務省はパフラヴィー国王を国賓として招くことを企図した。1959年5月の訪英の際、国王はガーター勲章を強く希望していたが、ついに授与されず、代わりに王立空軍の大将位を与えた。エリザベス2世は1961年3月に、ヨーロッパ君主として史上初めてイランを答礼訪問した。 以降、パフラヴィーは傲慢になり、女王との関係が悪化した。1970年には、イラン建国二千五百年祭典へのエリザベス2世の出席を強く望んだが、女王にその意思は無く、しかし英国の影響下にあったペルシャ湾岸諸国が相次いで独立した背景もあり、英外務省との妥協として、夫フィリップと長女アン王女を名代として派遣した。この後、この豪華な式典も遠因となって、パフラヴィーはイラン革命により王座を追われた。 1957年、カナダ議会での女王演説に臨むエリザベス2世女王夫妻 1957年10月、ワシントンD.C.の国立長老派教会(英語版)にて、アイゼンハワー大統領夫妻とともに 1958年、訪蘭時、ベアトリクス王女(当時)夫妻、イレーネ王女(英語版)らと女王夫妻
※この「スエズ危機と中東」の解説は、「エリザベス2世」の解説の一部です。
「スエズ危機と中東」を含む「エリザベス2世」の記事については、「エリザベス2世」の概要を参照ください。
- スエズ危機と中東のページへのリンク