サン=テニャン館の歴史
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「ユダヤ芸術歴史博物館」の記事における「サン=テニャン館の歴史」の解説
松岡智子氏の論文「ユダヤ芸術歴史博物館とパリ・マレ地区」による サン=テニャン館は、二人の枢機卿リシュリューとマザランに仕えた外交官ダヴォー伯爵のために、マザランの館の設計で知られる王室建築家ピエール・ル・ミュエ(フランス語版)(1591-1669) が手掛けており、中庭と通りに沿った翼をもつ古典主義的な様式により1644年に着工し、1650年に完成した。その後、サン=テニャン公がこの館を購入し住まいとしたが、18世紀に入ると、新たな住宅地としてフォーブール・サン・ジェルマンに人気が集まったため、マレ地区の貴族の邸宅の多くは見捨てられて売却され、工場や学校や低所得層の住宅となった。その後、フランス革命の嵐を免れたサン=テニャン館は、1800年から1823年の間、役所として使用され、後に分譲され、上階を増築され装飾も施された。さらにはコンクリートで中二階が作られ、ル・ミュエ当時の優雅な大回廊や階段も失われてしまった。1910年頃には、第二帝政時代のセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによるパリの大改造から免れたものの、様々な職人たちが住む共同住宅となり、建物も老朽化し、暖房に石炭を用いたためか壁も黒く汚れて変わり果てたサン=テニャン館の姿が見られる。 荒廃の一途をたどったマレ地区が国家的な保護の対象となったのは、1959年、シャルル・ド・ゴールによって、アンドレ・マルローが文化を専門的に担当する国務大臣に任命され、1962年に制定された世界的にも前例のない「マルロー法」によって、歴史的な文化遺産やその該当地区の保全を強調したことによる。マレは1964年から1967年にかけて、全体にわたり保全地区に指定され、貴族の館をはじめ周囲の建物の外観の洗浄と磨き直しが行われ、注意深く修復し内部も改築したが、ふさわしくない建物は容赦なく取り壊された。 サン=テニャン館が博物館として本格的に修復・改築されるのは1980年代からである。歴史的記念物の主任建築家ベルナール・フォンケルニー、古典建築の専門家クロード・ミニョ、建築家カトリーヌ・ビズアールとフランソワ・パンらの主導により次々と修復、復元、改装が行われ、17世紀の貴族の館の優雅さを取り戻すことになった。
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