コトゥジッツ村の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:56 UTC 版)
「コトゥジッツの戦い」の記事における「コトゥジッツ村の攻防」の解説
ヴァルドウの突撃が失敗に終わった後、オーストリア軍騎兵はコトゥジッツの東からプロイセン軍戦列の左翼側面を脅かし、イェーツェは敵騎兵が入り込んでくるのを防ぐために戦力を左翼に回さねばならなかった。しかしそうすると今度はイェーツェの右翼、プロイセン軍中央が弱くなり、ギャップを隠すことが出来なくなった。カール公子とケーニヒスエッグはコトゥジッツの歩兵戦列が突出しているうえに配置が落ちつかないのに目を付けて、ここに主攻をかけると決めた。コトゥジッツの南に砲列が敷かれて丘の上のプロイセン軍に砲撃が行われ、歩兵戦列は両翼からイェーツェを押し包むべく攻撃前進を開始した。 このころ、戦場の西では両軍騎兵の決着が未だに着かず、大王はブッデンブロークの成功を待って右翼歩兵を待機させているところだった。オーストリア軍が左翼に対して攻撃に出たとの報告を受けた大王は、歩兵軍団を左右に分割することにし、左翼の指揮を若デッサウに預けて敵の攻撃を跳ね返せと命じた。若デッサウは第二戦列のヴェーデル旅団を中央に押し出してオーストリア軍に対抗し、また左翼側面を伸ばすために1個大隊を割いて村の中に入れた。 コツゥジッツ南面のプロイセン軍歩兵は高地を占めていたこともあって数に勝る敵に対して良く戦ったが、オーストリア軍歩兵もモルヴィッツにおけるほど弱体ではなく、また重砲の砲撃に晒されていたこともあってだんだんと後退し始めた。このときプリンツ・レオポルト連隊付き従軍牧師のゼーゲバルトという人物は、銃弾の飛び交う中に姿を現わして兵たちに、神と王の名のもとに踏みとどまれとアピールした。プロイセン兵は、後退を余儀なくされるにしても頑強に抵抗し、戦死者続出にもかかわらず崩れなかったので、カール公子は敵を押しのけるために手持ちの歩兵戦力を次々投入した。 コトゥジッツの東では、オーストリア軍騎兵がプロイセン軍騎兵の排除に取りかかった。ヴェルデックの竜騎兵はこれを食い止めようとしたが敵わず、ヴェルデックは戦死し、配下の竜騎兵は散り散りになって村の中やその西側に後退した。ゼーゲハルトは馬に乗って戦場を巡り、彼らに再度戦列を形成するよう呼びかけた。プロイセン軍騎兵を排除することに成功したオーストリア軍騎兵はついにコトゥジッツの北からプロイセン軍戦列の背後に回り込むことに成功した。ところがコトゥジッツの背後には若デッサウ軍の空陣地があって、そこに入り込んだ騎兵たちは略奪に走って行動をストップしてしまった。彼らは南で依然奮闘中のプロイセン軍を背後から攻撃することをせず、また西の方向にはまだ健在なプロイセン軍歩兵がいることに注意を払わなかった。 午前9時ごろ、若デッサウのプロイセン軍左翼はオーストリア軍の猛攻に押されていた。オーストリア軍は南に加えて東からコトゥジッツ村に攻撃をかけ、中に突入したオーストリア軍と抵抗するプロイセン軍のあいだで熾烈な白兵戦が展開された。オーストリア軍は建物に拠って抵抗するプロイセン兵を追い出すために家屋に火をつけ、炙り出されたプロイセン兵はコトゥジッツの西や北に逃げた。が、しばらくするとコトゥジッツ村全体に火が回ってオーストリア兵も中に居られなくなり、プロイセン軍はこれを壁として利用することができた。さらにこのとき火のついた村からは煙が盛んにあがり、銃火によって生じる黒煙とともに周辺に漂って戦場の視界を悪くした。この煙は戦闘の効率を下げ、結果的にオーストリア軍に悪く作用した。若デッサウは村から逃げ出した兵士を再編成して戦列を組ませ、引き続き左側面の守りとして村に対置させ、右翼の歩兵は村の真西に後退させたうえでこれと連結し、プロイセン軍は今一度戦列を保ってオーストリア軍の攻撃を跳ね返そうとした。
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