コザ暴動とは? わかりやすく解説

コザ暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 10:22 UTC 版)

コザ暴動(コザぼうどう、英語: Koza Riot)は、1970年昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である[3]。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人[注 1]をひいた交通事故だが、背景に米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。


注釈

  1. ^ 当時の沖縄住民は日本およびアメリカのどちらの憲法も適用されない不安定な身分であったことを鑑み、以下便宜上「沖縄人」と表記する。公式の表現は「琉球住民」である。
  2. ^ 負傷者の搬送より加害者の移送が先になり、あたかもMPが加害者を逃がそうとしたように見えたので群集が騒ぎ出したという説もある。
  3. ^ 「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載のアメリカ軍秘密通信ではアメリカ軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。

出典

  1. ^ a b c d 岩田直仁 (2006年10月14日). “第4部・南島サウンド行<5>コザ暴動 「人生をグチャグチャにされた」 支配への怒り臨界点に達し―連載”. 西日本新聞. オリジナルの2012年9月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120918030021/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/kayou/20061014/20061014_001.shtml 2012年4月12日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f 新報アーカイブ・あの日の紙面 車両炎上 コザ騒動(1970年12月21日)”. 琉球新報 (2009年12月25日). 2012年4月12日閲覧。
  3. ^ 逃げず、声を出すこと 舞台「hana-1970、コザが燃えた日-」”. 産経ニュース (2022年1月20日). 2022年1月20日閲覧。
  4. ^ コザ騒動50年 爆発した基地の街の怒り 琉球新報2020年12月20日
  5. ^ 「コザ騒動」が伝える精神東京新聞「週のはじめに考える」2020年12月20日
  6. ^ そして、街は炎に包まれた ~消えない怒りと、不条理と~NHK Web特集
  7. ^ 伊佐千尋「炎上 ―沖縄コザ事件―」文春文庫
  8. ^ a b c 野里洋 (2007). 癒やしの島、沖縄の真実. ソフトバンククリエイティブ. pp. 27-30・39-41 
  9. ^ a b c 第64回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号 昭和45年12月24日”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2020年2月24日閲覧。
  10. ^ 米兵の犯罪が続発 短銃強盗、追われて発砲『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月14日朝刊 12版 3面
  11. ^ 荒れ狂う沖縄の怨念 憲兵の車も襲い放火 催涙弾に投石で応酬『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月21日朝刊 12版 3面
  12. ^ 催涙ガスやめろ 知念副主席米軍どなる『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月21日朝刊 12版 3面
  13. ^ “沖縄市が「コザ反米騒動」資料入手/米国民政府、騒乱罪適用に消極的”. 琉球新報. (1999年9月4日). オリジナルの2015年5月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150522125430/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95234-storytopic-86.html 2020年4月20日閲覧。 
  14. ^ “「新たな暴動 懸念」 コザ騒動 騒乱罪見送り”. 沖縄タイムス. (2010年12月17日). オリジナルの2012年3月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120314100105/http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-12-17_12894/ 2020年4月20日閲覧。 


「コザ暴動」の続きの解説一覧

コザ暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 16:09 UTC 版)

沖縄米軍駐留反対運動」の記事における「コザ暴動」の解説

1970年12月コザ市(現・沖縄市)での緊張が、3,000人以上の沖縄市民と米軍憲兵との衝突勃発もたらした(コザ暴動)。衝突は、アメリカ人運転手沖縄県民撥ねて軽傷を負わせたことから始まった群衆対処するために駆けつけ憲兵警告射撃行い、それがさらに群衆増大させた。この衝突夜を徹して続く暴動となり、82台の車が燃やされ88人の負傷者出た。この自然発生的な暴動は、米軍支配下劣悪な扱い受けていた沖縄県民分岐点であると考えられた。

※この「コザ暴動」の解説は、「沖縄米軍駐留反対運動」の解説の一部です。
「コザ暴動」を含む「沖縄米軍駐留反対運動」の記事については、「沖縄米軍駐留反対運動」の概要を参照ください。


コザ暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 03:28 UTC 版)

大山朝常」の記事における「コザ暴動」の解説

「コザ暴動」も参照 1970年12月いわゆる「コザ暴動」が発生する暴動発端は、コザ市街でアメリカ軍人起こしたひき逃げ事故をした後、住民の車と追突事故起こしたことにある。事故現場駆けつけアメリカ軍MPに、事故処理に対して不信感持っていた住民たちが取り囲んだ。これに畏怖しMP上空向かって威嚇射撃行ったため、住民らがイエローナンバーをつけたアメリカ軍MPの車を放火する至った大山は、アメリカ軍MP急報消防車乗り込み現場駆けつけたが、燃える車に行く手阻まれ現場にいた市民事情聞くことしかできなかった。 暴動後、アメリカ軍側は基地兵士たち外出禁止令「オフ・リミッツ」を出し、また軍作業員解雇続いた。これによりコザ市経済直接打撃を受け、基地関連業者やその従業員窮地追い込まれた。 大山掲げていた「基地依存経済からの脱却」は攻撃対象となり、保守系議員からは「あの暴動はお前がやらせたのだろう」などと批判された。さらには大山掲げていた「基地経済からの脱却」は具体的な成果出ていないとして退陣要求出されたり、差出人不明脅迫状送りつけられたりした。そして実際に暴漢襲撃受けた基地関連業者らは、日本政府琉球政府離職者救済のための臨時措置法制定要請したが、無視された。大山商工会議所基地関連業者に対して、市からAサイン業者への休業見舞金支払うことを決めた

※この「コザ暴動」の解説は、「大山朝常」の解説の一部です。
「コザ暴動」を含む「大山朝常」の記事については、「大山朝常」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「コザ暴動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コザ暴動」の関連用語

コザ暴動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コザ暴動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコザ暴動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの沖縄米軍駐留反対運動 (改訂履歴)、大山朝常 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS