ケーテン時代とは? わかりやすく解説

ケーテン時代 (1717年-1723年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:32 UTC 版)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の記事における「ケーテン時代 (1717年-1723年)」の解説

1717年バッハケーテン移りアンハルト=ケーテン侯国宮廷楽長となった当時アンハルト=ケーテン侯国音楽理解のあるアンハルト=ケーテンレオポルト統治下にあり、バッハもらった400ターラーという年俸も前任者シュトリッカーの倍額であったこうした恵まれた環境の中で、数多く世俗音楽名作作曲した。これにはアンハルト=ケーテン侯国カルヴァン派信奉していたため、教会音楽作る必要がなかったことも関係している。しかし、このような環境下でもレオポルト誕生日12月10日元旦1月1日の年2回は、教会カンタータ演奏されたとされている。 1718年5月9日バッハレオポルト候と5人の楽師とともにチェンバロ持参のうえ、ボヘミア保養地カールスバート行っている。また1718年秋には、バッハレオポルト侯の命により二段鍵盤チェンバロベルリンチェンバロ製作者ミヒャエル・ミートケに注文し、それを引き取るために1719年3月ベルリン訪れていることが分かっている。1719年5月ハレ帰郷し家族とともに過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハ会い訪れたが、到着した日にはヘンデル出発した後であったため会うことができなかった。1720年5月領主レオポルト侯に随行し、再び訪れていたカールスバートへの2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われた。バッハ帰郷した時には、既に妻が7月7日埋葬され後であった。 1720年9月12日ハンブルク聖ヤコビ教会オルガニスト、ハインリヒ・フリーゼが死去しバッハその後任を決めるための11月28日行われた試験演奏応募していた。この聖ヤコビ教会オルガンアルプ・シュニットガー作の大オルガンで、4段鍵盤60ストップもある楽器であった。しかし、彼は12月10日レオポルト候の誕生日準備のため、ハンブルク滞在することができなかったため、それに先立ち聖カタリナ教会で2時間以上に及ぶオルガン演奏会行ったバッハ演奏でも特に即興演奏は、当時聖カタリナ教会オルガニストだったラインケン市参事会員、市の有力者たちを含む聴衆驚かせた。バッハはこの時、コラールバビロン川のほとりにて』の主題基づいて即興演奏行い聴衆熱狂させた。そして、厳格なことで知られるラインケン次のような賛辞送っている。 「私は、この芸術死に絶えた思っておりましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました。」 このような評価相まってバッハ採用決定しケーテンその旨伝えられたが、12月12日委員会にもバッハ回答届かずその後結局バッハはこの申し出断ってしまう。申し出断った直接理由分かっていないが、バッハ代わりにヨハン・ヨアヒム・ハイトマンという人物が4千マルクという多額寄付をして教会地位得ている。 1721年宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した同年12月3日レオポルト候の許可得てバッハ自宅バッハとの結婚式が行われた。アンナは、有能な音楽家結婚後もケーテン宮廷につとめ、夫の半額200ターラーにも及ぶ収入得ていた。彼女は、夫の仕事助け作品写譜などもしているだけでなく、バッハ作品とされていた曲のいくつかは彼女の作曲であることが確実視されている。有名なアンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハ贈った楽譜帳で、『フランス組曲』の最初の5曲等を含む第1の曲集は1722年に、『パルティータ』等を含む第2の曲集は1725年贈られている。特に、第2の曲集にはマグレダーナが自由に記入をしており、バッハ家庭演奏されたと思われる曲が折々書き込まれている。バッハ長男のフリーデマンのためにも1720年1月22日から『クラヴィーア小曲集』を書き始めており、ここには『平均律クラヴィーア曲集』の初期稿と、『インヴェンションとシンフォニア』の初期稿見られる。。 アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子ものうち多くは幼いうちに世を去っている。しかし末子クリスティアン兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功しイングランド王専属音楽家となった他、モーツァルト大きな影響与えた。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、みな音楽家として活動した下記)。バッハ再婚からわずか8日後の12月11日レオポルト候も従妹アンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚した。この妃はバッハから「音楽嫌い amusa」と呼ばれており、この結婚影響もあってか1720年頃からレオポルト音楽対す出費減少しケーテン宮廷楽団規模縮小されるようになった

※この「ケーテン時代 (1717年-1723年)」の解説は、「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の解説の一部です。
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