ケーテン時代 (1717年-1723年)
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「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の記事における「ケーテン時代 (1717年-1723年)」の解説
1717年、バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となった。当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルトの統治下にあり、バッハがもらった400ターラーという年俸も前任者シュトリッカーの倍額であった。こうした恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。これにはアンハルト=ケーテン侯国がカルヴァン派を信奉していたため、教会音楽を作る必要がなかったことも関係している。しかし、このような環境下でもレオポルトの誕生日12月10日と元旦1月1日の年2回は、教会カンタータが演奏されたとされている。 1718年5月9日、バッハはレオポルト候と5人の楽師とともに、チェンバロ持参のうえ、ボヘミアの保養地カールスバートに行っている。また1718年秋には、バッハはレオポルト侯の命により二段鍵盤のチェンバロをベルリンのチェンバロ製作者ミヒャエル・ミートケに注文し、それを引き取るために1719年3月にベルリンを訪れていることが分かっている。1719年5月、ハレに帰郷し家族とともに過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れたが、到着した日にはヘンデルが出発した後であったため会うことができなかった。1720年5月、領主レオポルト侯に随行し、再び訪れていたカールスバートへの2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われた。バッハが帰郷した時には、既に妻が7月7日に埋葬された後であった。 1720年9月12日、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニスト、ハインリヒ・フリーゼが死去し、バッハはその後任を決めるための11月28日に行われた試験演奏に応募していた。この聖ヤコビ教会のオルガンはアルプ・シュニットガー作の大オルガンで、4段鍵盤、60ストップもある楽器であった。しかし、彼は12月10日のレオポルト候の誕生日の準備のため、ハンブルクに滞在することができなかったため、それに先立ち聖カタリナ教会で2時間以上に及ぶオルガン演奏会を行った。バッハの演奏でも特に即興演奏は、当時聖カタリナ教会オルガニストだったラインケンや市参事会員、市の有力者たちを含む聴衆を驚かせた。バッハはこの時、コラール『バビロンの川のほとりにて』の主題に基づいて即興演奏を行い、聴衆を熱狂させた。そして、厳格なことで知られるラインケンは次のような賛辞を送っている。 「私は、この芸術は死に絶えたと思っておりましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました。」 このような評価も相まってバッハの採用が決定し、ケーテンにその旨が伝えられたが、12月12日の委員会にもバッハの回答は届かず、その後結局バッハはこの申し出を断ってしまう。申し出を断った直接の理由は分かっていないが、バッハの代わりにヨハン・ヨアヒム・ハイトマンという人物が4千マルクという多額の寄付をして教会の地位を得ている。 1721年、宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。同年12月3日にレオポルト候の許可を得て、バッハの自宅でバッハとの結婚式が行われた。アンナは、有能な音楽家で結婚後もケーテン宮廷につとめ、夫の半額の200ターラーにも及ぶ収入を得ていた。彼女は、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしているだけでなく、バッハの作品とされていた曲のいくつかは彼女の作曲であることが確実視されている。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、『フランス組曲』の最初の5曲等を含む第1の曲集は1722年に、『パルティータ』等を含む第2の曲集は1725年に贈られている。特に、第2の曲集にはマグレダーナが自由に記入をしており、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれている。バッハは長男のフリーデマンのためにも1720年1月22日から『クラヴィーア小曲集』を書き始めており、ここには『平均律クラヴィーア曲集』の初期稿と、『インヴェンションとシンフォニア』の初期稿が見られる。。 アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っている。しかし末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、みな音楽家として活動した(下記)。バッハの再婚からわずか8日後の12月11日、レオポルト候も従妹のアンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚した。この妃はバッハから「音楽嫌い amusa」と呼ばれており、この結婚の影響もあってか1720年頃からレオポルトの音楽に対する出費は減少し、ケーテンの宮廷楽団の規模も縮小されるようになった。
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