カリフォルニアへの転居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:54 UTC 版)
「ブラック・ダリア事件」の記事における「カリフォルニアへの転居」の解説
1942年後半、ショートの母は死亡したと思われていた夫から謝罪の手紙を受け取った。手紙には、夫は実は生きており、カリフォルニアで新しい生活を始めたと記されていた。1942年12月、つまり18歳のとき、ショートは6歳のときから会っていなかった父と一緒に暮らすため、ヴァレーホへ転居した。当時、父はサンフランシスコ湾のメア・アイランド海軍造船所の近くで働いていた。しかし、ショートと父との間で口論が起こり、1943年1月にショートは父の元を立ち去った。それから間もなく、ショートはロンポック(英語版)の近くのキャンプ・クーク (現在のヴァンデンバーグ空軍基地) の酒保で仕事を見つけ、数名の友人と一緒に暮らした。短い間、陸軍航空軍の下士官と一緒に暮らしたこともあったが、その人物はショートを虐待していたと言われている。1943年中頃にショートはロンポックを離れてサンタバーバラへ転居した。その地では、1943年9月23日に地元の酒場で未成年飲酒で逮捕されている。ショートは少年犯罪ということで当局によりメドフォードへ送還されたが、結局フロリダへ戻った。マサチューセッツへはときどき来るだけだった。 ショートはフロリダにいる間、マシュー・マイケル・ゴードン・ジュニア (英: Matthew Michael Gordon, Jr.) 少佐に出会った。ゴードンは第2航空遊撃隊(英語版)の陸軍航空軍将校であり、叙勲を受けている。第二次世界大戦の中国・ビルマ・インド戦域(英語版)への配置に向けた訓練を受けていた。ショートは友人に、ゴードンがインドでの飛行機の墜落の負傷で療養している間に結婚を申し込む手紙を送ってきたと語った。ショートはゴードンの求婚を受け入れたが、ゴードンは1945年8月10日の2度目の墜落で死亡した。それから1週間足らずで日本が降伏して戦争は終わった。 ショートは1946年7月にロサンゼルスへ転居し、陸軍航空軍のジョセフ・ゴードン・フィックリング (英: Joseph Gordon Fickling) 中尉の元を訪れた。フィックリングとはフロリダで知り合っていた。フィックリングはロングビーチにある海軍予備航空基地に配属されていた。ショートは人生の最期の6ヶ月を南カリフォルニアで過ごし、そのほとんどをロサンゼルス地域で過ごした。死の直前、ショートはウェイトレスとして働いており、ハリウッド大通り(英語版)にあるフロレンティン・ガーデンズ・ナイトクラブの裏の部屋を借りていた。ショートは女優志願者、もしくは「えせ」女優として様々に描写されている。いくつかの情報源によれば、ショートには本当に映画スターになるという大望があったと描写されているが、女優の仕事をしていたかは不明である。
※この「カリフォルニアへの転居」の解説は、「ブラック・ダリア事件」の解説の一部です。
「カリフォルニアへの転居」を含む「ブラック・ダリア事件」の記事については、「ブラック・ダリア事件」の概要を参照ください。
- カリフォルニアへの転居のページへのリンク