カランカワ族問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「カランカワ族問題」の解説
1776年、バイーア伝道所でインディアン達が、グアダルーペ川河口近くで難破したヨーロッパ人をカランカワ族が虐殺したと兵士達に伝えた。兵士達は、イギリスの商業用フリゲートの残骸を発見した後、カランカワ族に水夫達を攻撃しないよう警告した。この兵士達は海岸の探索を続け、外国勢力が本土からの接近が難しい防波島に容易に小さな拠点を建設し、その後にトリニティ川やサンジャシント川を遡ってテキサスの心臓部に入ってくることができる、と報告した。ラ・バイーア砦の指揮官ルイス・カソーラ大尉は、スペイン政府が防波島に小さな砦を建設し、喫水の浅い船で継続的に海岸を偵察するよう提案した。この砦は血に飢えたインディアンとイギリス人の双方に抑止する効果を狙ったものだった。スペイン政府は密貿易を恐れており、テキサス海岸に港の建設や船が航行することを認めようとはしなかった。 デ・クロワは新しい植民地に不満であり、「秩序のない1つの集落、2つの砦、7つの伝道所および両性、全年齢を合わせてわずか4,000人という人口で、ロス・アダエスの放棄された砦からサンアントニオまでの広大な荒れた国を占領するというのは、...テキサス植民地という名に値せず、...その保護に伴う利害にも値しない」と不平をこぼした。デ・クロワはその地域が気に入らなかったにも拘わらず、植民地内陸の兵力を50%増強し、重い装備を全て持たず徒歩で戦うことのできる「軽部隊」を創設した。デ・クロワの統率でインディアン部族との同盟を構築し、コマンチェ族やウィチタ族と共にアパッチ族の襲撃者を排除しようと計画した。スペインがフランスやアメリカ独立推進者と同盟してアメリカ独立戦争に参入し、金や兵力がアパッチ族の掃討よりもフロリダを攻撃することに向けられたので、この計画は棚上げされた。しかし、コアウイラの兵士達がリパン・アパッチ族に対抗するためにメスカレロ族と同盟した後で、スペインはリパン・アパッチ族と休戦協定を結ぶことができた。コマンチェ族はより恥知らずにもなり、1781年にラ・バイーア砦を攻撃してきたが撃退された。 1777年にイギリス人ジョージ・ゴールドがメキシコ湾岸をガルベストン湾まで調査したということを聞いたベルナルド・デ・ガルベスはフランス人技師ルイ・アントニオ・アンドリーを指名して、スペインのために同様な調査を行わせた。アンドリーは1778年3月にその調査を終え、危険なくらい食料が不足してきた後でマタゴルダ湾を離れようとした。このときにカランカワ族が援助を申し出て船から数人を誘い出し、マヤ族のトマス・デ・ラ・クルスという水夫を除いて皆殺しにした。カランカワ族は船にも火を付け、おそらくはスペインにとって初めてのテキサスからルイジアナに至る海岸の新しい詳細地図が船と共に失われた。数ヶ月後、ラ・バイーア砦に近いロザリオ伝道所に住んでいたインディアンが逃亡してカランカワ族に合流し、家畜を襲い、開拓者達に嫌がらせを始めた。知事が逃亡者の多くに特赦を発すると、その多くは伝道所に戻った。カランカワ族はスペインに対して問題を起こし続け、1785年に暫定軍政府長官ジョセフ・アントニオ・レンゲルが、カランカワ族が辺りを支配する限り、マタゴルダ湾を探検することはできないと述べた。 スペインは再度その海岸線地図を作る手配を行い、1783年9月、ホセ・デ・エビアがハバナを発ってキーウェストからマタゴルダ湾までの海岸線地図を作った。エビアはその航海の間にその後援者であるガルベスに因んでガルベストン湾という名前を付けた。エビアは後に、その一部がテキサスに属することになったマタゴルダ湾からタンピコまでのヌエボ・サンタンデル海岸の地図も作った。
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