おっぺけぺえ‐ぶし【おっぺけぺえ節】
オッペケペー節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 05:56 UTC 版)
オッペケペー節(オッペケペーぶし)は、明治時代の流行歌である。日本最古の日本人の歌声として残っていることでも有名。
- ^ オムニバス『恋し懐かし はやり唄』コロムビア・レコード,2006年
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p581、東京堂出版、1993年
- ^ “版画「川上音二郎書生演劇」 - 小国政 - Google Cultural Institute”. 2016年6月25日閲覧。
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p579-582、東京堂出版、1993
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p579-582、東京堂出版、1993
- 1 オッペケペー節とは
- 2 オッペケペー節の概要
- 3 音源
オッペケペー節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:26 UTC 版)
1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1883年9月13日、内務省より集会条例第6条違反で1年間政治演説を禁止された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年(明治24年)2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。 1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。
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