エリザベス・シアター・トラスト・オペラ・カンパニー:1957年-1970年
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1957年末に、エリザベス・シアター・トラスト・オペラ・カンパニーに改称した。 1959年には、カンパニーから休職を言い渡されていた歌手達が初めてのツアーを行い(州の芸術協議会が後援)、ロッシーニの『セビリアの理髪師』を、場面を減らした脚本を用い、ピアノのゲオルク・ティントナーの指揮で公演を行った(ビクトリア州、ニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州)。引き続き行われた芸術協議会のツアーでは、『リゴレット』(1960年、ビクトリア州、クイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州)、『コジ・ファン・トゥッテ』(1961年、ニュー・サウス・ウェールズ州、クィーンズランド州)、そして、『ラ・トラヴィアータ』(1962年、ニュー・サウス・ウェールズ州、クィーンズランド州)の公演を行った。指揮はすべてティントナーが務めている。1963年末には、歌手とカンパニー・スタッフのうち、それまで長期間在籍してきた核となるメンバーは年間を通じてカンパニーに勤務することとなり、各地の芸術祭、例えばアデレード芸術祭などに出演した。1967年末には、オペラ・カンパニーのために、さらなる政府の援助を得て、最初のエリザベス・トラスト・オーケストラを結成することもできた。この期間に、ステファン・ハーグがカンパニーの発展のために重要な役割を果たした。 カンパニーにとって大きく画期的な出来事だったのは、1968年に行われた、プッチーニの『トスカ』のテレビ収録だった。ティート・ゴッビが2人のオーストラリア人とともにスカルピア男爵役を、ソプラノのマリー・コリエがトスカ役を、テナーのドナルド・スミスがカヴァラドッシ役を務め、アルゼンチン生まれのイタリア人指揮者カルロ・フェリーチェ・シラーリオが指揮した。これが長期にわたって実り豊かなものとなる、オーストラリアのオペラ界とイタリアの巨匠シラーリオとの共同の始まりである。両者の共同関係は、彼が引退する2003年まで続いた。シラーリオがオーストラリアで初めて行った下稽古を行った際には、エリザベス・シドニー・オーケストラとオーストラリアン・オペラ・コーラスも指揮している。この2つはどちらも新しく結成されたもので、終身契約により人が集まっていた。 一方、まだこのオペラ・カンパニーと共演してはいなかったジョーン・サザーランドは、その当時オーストラリア人のソプラノ歌手として国際的に知られており、夫であり指揮者のリチャード・ボニングとともに1960年代を通じてオーストラリアでオペラの隆盛に尽くしていた。サザーランドの名は、シドニー・オペラハウスの建設の進捗と結びつけて語られるようになった。オペラハウスの建設は1957年に始まったが、依然建設中であり、長期にわたり議論を呼んでいた。『ラ・ステュペンダ』が1974年に上演される頃には、それはオペラハウスが落成して1年後のことだが、カンパニーは、多人数のコーラス隊を抱え、経験豊かなオーストラリア人の主演俳優をゲスト歌手として、さらに指揮者をも迎える準備が整った、レパートリー豊かな最も重要なカンパニーとなったのである。
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