エフェドリンの発見
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バニリンの分離の後、大日本帝国政府は長井に帰国を要請した。日本の薬学を進展させ、大規模な製薬会社をつくるためである。大日本帝国へ帰国した長井には大きな期待がかけられていた。 大日本製薬合資会社設立への参加要請 帝国大学教授 理学部化学科の化学担任・医学部での薬化学専任 文部省諮詢総会の会合に推挙 内閣省御用係兼務 衛生局東京試験局長 中央衛生会委員 叙勲 正六位 翌1885年(明治18年)に麻黄からエフェドリンを発見。その後、これが大量に合成可能であることを証明した。これは、気管支喘息患者にとって、呼吸困難から救われる福音となった。 実家に結婚についての話をした後、1887年ドイツに戻り、テレーゼの故郷アンダーナッハで盛大な結婚式を挙げた。実家から式場まで長い絨毯が敷かれたという。 東京薬学会(1878年発足、現 日本薬学会)の1885年の例会で、長井長義は演説を行い、次のように締めくくった。 昔、ギリシアの王が、演劇を見に行ったところ、既に観客が一杯で、王座とすべきところがなかった。座主が恐縮していたところ、王は、「席の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座なのだ」と言って、庶民の席についたという。私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希望する。 この演説は、若い薬学者に希望を与えるとともに、当時の日本の薬学についての状況と、長井自身の立場と役割を明確に述べている。こののち、1887年に東京薬学会の初代会頭に就任した。 1893年には、このエフェドリンからメタンフェタミンの単離に成功し、覚醒剤の元を生み出す。
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