エスペランティストとして
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1905年のブリュッセル滞在中に書店でエスペラントの書籍を見つけて独習。広島高等師範学校時代に同僚の大野直枝らと広島エスペラント倶楽部を設立。
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エスペランティストとして
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「小坂狷二」の記事における「エスペランティストとして」の解説
小坂狷二は国際語エスペラントを1906年に二葉亭四迷の『世界語』により知る。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。1916年より日本エスペラント協会(Japana Esperantista Asocio)の運営に参加するも、その組織実態にあきたらず、1919年に浅井恵倫、藤沢親雄らとともに日本エスペラント学会(Japana Esperanto-Instituto)を設立。その後、同学会が日本のエスペラント運動の中心機関となる(なお1926年に同学会は財団法人化)。同学会事務所は東京市の小坂宅におかれ(~1928年)、機関誌"La Revuo Orienta"の編集に1925年までたずさわる。その後、2年間の職業上の欧米滞在を経て、日本にもどってからも精力的にエスペラントの活動に参加する。1938年の第26回日本エスペラント大会で、小坂にちなみ、顕著な活動をしたエスペランチストに贈られる「小坂賞」が設定される。1968年、財団法人日本エスペラント学会において会長に任ぜられる。国際的には1958年~1967年に「エスペラント語学院(アカデミーオ・デ・エスペラント)会員であった。
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