ウルグアイ・アルゼンチン・パラグアイ・チリ共同開催構想
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「2030 FIFAワールドカップ」の記事における「ウルグアイ・アルゼンチン・パラグアイ・チリ共同開催構想」の解説
2030年大会をウルグアイで開催しようという動きは、一般のファンが先行して進めていた。1990年、近代オリンピック開催100周年となる第26回夏季オリンピック大会の開催地として国際オリンピック委員会 (IOC) がアメリカ合衆国のアトランタを選んだ決定(アトランタオリンピック)は、1896年に第1回大会(アテネオリンピック (1896年))を開催したギリシャのアテネが有力と見られていた事前予想を覆し、歴史的意義の軽視という主張を含めた多くの批判を呼んだ。ウルグアイ出身でイスラエル在住のホテルマンだったアベル・フィアルコは、国際サッカー連盟 (FIFA) もワールドカップ100周年の記念大会をウルグアイ以外で開催するのではないかと危惧し、1997年にウルグアイ開催を求めるサイトをインターネット上に開設して、国内外のウルグアイ人からの支持やメディアの関心を徐々に集めていた。 2005年10月4日、ワールドカップ創設75周年を記念してFIFAのジョセフ・ブラッター会長がウルグアイを訪問した時、ウルグアイ大統領のタバレ・バスケスはブラッターに対して、南米共同市場(メルコスル)諸国と共同で100周年記念大会を開催できると初めて示唆した。会談後の声明でブラッターはこれを激励した上で、「南米サッカー連盟 (CONMEBOL) のニコラス・レオス会長が、開催地の大陸持ち回り制を考慮すれば2030年大会は南米の順番である」と述べた事を紹介した。 2007年10月、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長はウルグアイサッカー協会からの申し出を受けて、アルゼンチンとウルグアイの両国で2030年大会の共催を目指す事を明らかにし、他のCONMEBOL諸国は両国の共催を支持する姿勢を示した。2010年6月10日、南アフリカ共和国で開催される2010年大会の開幕前日にウルグアイの観光スポーツ大臣がブラッター会長と会談し、アルゼンチンとの共催による2030年大会の招致を正式に提案した。2011年3月には両国政府による大会招致への全面協力が発表され、2013年4月には両国による合同招致委員会が設置され、7月のFIFA総会における正式立候補を準備中と伝えられている。 ただし、共催計画には今のところ未定の部分が多い。決勝戦については、ウルグアイ側ではその立候補の動機から、1930年と同様に首都モンテビデオのエスタディオ・センテナリオで開催するのが当然視されているが、それについてアルゼンチン側からの明確な反応は伝えられていない。また、自国を含む13ヶ国で開催し、モンテビデオ市内の3つのスタジアムで18試合を行えば良かった1930年と異なり、1998年のフランス大会以降は32チーム、64試合を行う規模となり、会場数も1998年以降は最低でも10会場が利用されている。スタジアムの規模や設備も格段に高いレベルが求められ、莫大な経費がかかる大会になっている。人口約340万人、国内総生産 (GDP) 約400億米ドルと、いずれもアルゼンチンの10分の1以下しかないウルグアイの大会開催能力は未知数である。 2017年8月31日、パラグアイのオラシオ・カルテス大統領はウルグアイ、アルゼンチンとともに2030年大会共催を目指す考えを示した。カルテス大統領のツイッターには「アルゼンチン、ウルグアイの大統領と合意した」とつづっている。 2018年4月9日、ウルグアイ・アルゼンチン・パラグアイが、3カ国共催を目指すと正式に発表した。 ウルグアイで2都市、アルゼンチンで8都市、パラグアイで2都市での開催を計画している。 2019年2月14日、チリのセバスティアン・ピニェラ大統領が自身のツイッターにて、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイとともに2030年大会共催案に加わることを明らかにした。 ウルグアイ - 第1回大会以来100年ぶり2度目の開催を目指す。 アルゼンチン - 1978年大会に続いて2度目の開催を目指す。 パラグアイ - 初の開催を目指す。 チリ - 1962年大会に続いて2度目の開催を目指す。
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