ウィーン会談とは? わかりやすく解説

ウィーン会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 14:03 UTC 版)

ウィーン会談(ウィーンかいだん)は、厳しい冷戦のさなかであった1961年6月3日から6月4日にかけて、オーストリアウィーンで行われた、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと、ソビエト連邦首相共産党第一書記ニキータ・フルシチョフの米ソ頂上会談である。両者の名をとって、ケネディ=フルシチョフ会談とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 1949年の東ドイツ成立から遡ると、1949年から1961年までで260万人、またこれ以前の1945年から1949年までを含めれば、トータル300万人に達すると見られている。フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 21P
  2. ^ アイゼンハワー政権の国務長官。対共産圏に対して封じ込め外交を展開した。
  3. ^ このケネディが言った言葉を、後で議事録を読んで知ったアメリカ政府高官は衝撃を受けたと言われている。トルーマンもアイゼンハワーも欧州が東西に分裂している現実を認めていなかったからで、この言葉は以後東欧はソ連の支配に入ることを認めてアメリカは一切関与しないことを意味する。「ベルリン危機1961」フレデリック・ケンプ著 311P
  4. ^ この当時、イランはパーレビ国王の時代で白色革命といわれた近代化を強権的に進め、イスラム化ではなく世俗化を推し進めていた。彼は1979年にこの当時パリに亡命していたホメイニ師を中心としたイスラム革命で追放されて、イランに新しい時代が訪れた。そしてアメリカはイラン革命の後に大使館占拠事件以降に国交を断絶した。
  5. ^ このポーランドに言及した際に、ケネディが言った言葉が、後日政権内で物議を醸した。つまり欧州の分割を受容可能で永続的なものと認める点で、トルーマンもアイゼンハワーも述べたことがない、最もあけすけな言明をしていた。ここまで踏み込んだ発言はしていなかった。フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 318P しかし現在から見ると、ここでお互いの勢力圏を確認し、相手の勢力圏には踏み込まないと自然に共通理解したことが、この直後のベルリン危機やキューバ危機での冷静な対応につながったとも考えられ、特にベルリンではフルシチョフは結局西ベルリンに踏み込むことはしなかった。また後述のベルリンの壁をケネディは会談後に予測し、それに対して反対の姿勢を取らなかった。
  6. ^ ここでフルシチョフは意味深な言葉を述べている。フレデリック・ケンペは著書「ベルリン危機1961」の中で、これはフルシチョフにしては珍しい失言だとしている。この1961年春の時点では中ソ間の対立はまだ西側には明らかになっていなかった。ソ連側は後にこの会談議事録作成の時に、「中国は我々の隣人であり、友人であり、同盟者である。」の語句を書き入れている。これは実際にはフルシチョフはひと言も発言しておらず、中国側へのソ連側の配慮であった。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」330P参照
  7. ^ 戦後すぐに米英仏ソの4ヵ国間でベルリンに関する協定を結び、お互いの管理区域を決めてその区域を跨ぐ場合の取り決めも定められて、公務員や軍人・軍属は一切身分証明を求められることはなく、この時までそのようなことは無かった。これは4ヵ国手続きに違反し、かつアメリカは東ドイツを承認しておらず、しかも実はソ連はそのような指示を行っておらず、平和条約の締結を放棄したフルシチョフへのウルブリヒト第一書記の怒りが一方的に入国審査を厳しくしたのである。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 213P参照

出典

  1. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 127P
  2. ^ a b 「ケネディの道」
  3. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 133-134P
  4. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 166-167P
  5. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 186-187P
  6. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 261P
  7. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 260-261P
  8. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 263-264P
  9. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 283-287P
  10. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 299-302P
  11. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 299-308P
  12. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 304.307-309P
  13. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 309-313P
  14. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 314P
  15. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 316-317P
  16. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 317-320P
  17. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 321P
  18. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 324-326P
  19. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 328P
  20. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 329-330P
  21. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 330-346P
  22. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 337P
  23. ^ 「米国政治のダイナミクス・上」158P
  24. ^ 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』229P
  25. ^ 「ベルリン危機1961」下巻 13P
  26. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 356P
  27. ^ 「ベルリン危機1961」上巻 359P
  28. ^ 「ベルリン危機1961」下巻 42P


「ウィーン会談」の続きの解説一覧

ウィーン会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)

キューバ危機」の記事における「ウィーン会談」の解説

ピッグズ湾事件から2カ月6月3~4日オーストリア首都ウィーンで、ケネディ大統領フルシチョフ首相最初で最後首脳会談臨んだ。この会談ケネディ持論であった大国同士の『誤算』が戦争引き起こすことについて話すと、フルシチョフキューバ問題について「バチスタ支持したことがキューバ国民の怒りアメリカ向かっている理由です。キューバ上陸作戦キューバ革命勢力カストロ地位強めただけである。わずか600万人キューバアメリカにとって脅威ですか?アメリカ他国国内問題介入する先例作ってしまった。この状況誤算引き起こすことになる」と語りケネディキューバ状況に関して判断ミスがありピッグス湾事件誤りであったことを認め両者は『誤算生む可能性排除すること』に同意した。 この時、ケネディは「私は政策判断をする場合に、ソ連次に世界でどう動くかに基づいて下さなければならない。これはあなたがアメリカ動きに関して判断しなければならない場合と同様である。故にこの会談をこれらの判断により大きな正確さもたらすのに役立つものとしたい」とフルシチョフ語り、そしてフルシチョフは「危険はアメリカ革命の原因誤解した時にのみ起こるものだ」と切り返した。

※この「ウィーン会談」の解説は、「キューバ危機」の解説の一部です。
「ウィーン会談」を含む「キューバ危機」の記事については、「キューバ危機」の概要を参照ください。


ウィーン会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 19:40 UTC 版)

ピッグス湾事件」の記事における「ウィーン会談」の解説

ピッグス湾事件より2カ月後に、ウィーン米ソ首脳会談が行われた。フルシチョフにとってはアメリカピッグス湾事件失敗で、ケネディに対して優位に立った判断して会談臨んだケネディにとっては失地回復の場としてフルシチョフとの個人的な折衝通じて円滑な意思疎通図れるようにするための会談でもあった。キューバ問題に関して二人やり取りは以下のようなものであった。 ケネディフルシチョフ首相アメリカ動きを基にして判断しなければならないように、私はソ連次にどう動くかに基づいて判断を下さねばならない。だからこれらの判断に、より大きな正確さもたらすものにしなければならない。それによって国を危険に曝すことなく競争時代生き抜くことができる。 フルシチョフ危険はアメリカ革命の原因誤解したときにのみ起こる。革命はすべて内発的なものであり、ソ連作り出したものではない。キューバに対してアメリカバチスタ支持し、このことがキューバ国民の怒りアメリカ向かっているのです。大統領決断したキューバ上陸作戦キューバ革命勢力カストロ地位強めただけです。もともとカストロ共産主義者ではない。しかしアメリカ政策が彼を共産主義者変えたのです。私も共産主義者生まれたわけではない資本主義者が私を共産主義者にしたのです。わずか600万人キューバアメリカにとって脅威ですか?アメリカキューバ思いのまま自由に行動できるとすればアメリカ軍基地があるトルコイランソ連干渉するのも自由になります。この状況大統領の言う誤算引き起こすことになりますケネディ私はバチスタ支持していない。自分懸念しているのはカストロ地域トラブル基地変えてしまうことです。キューバアメリカにとって脅威ではないのと同じくトルコイランソ連脅威とはなりえない。 このピッグス湾事件後もケネディ政権カストロ政権打倒目ざして、キューバ国内へのクーデター支援政権打倒工作ゲリラ攻撃カストロ暗殺工作などマングース作戦呼ばれる工作続けこのままではアメリカ合衆国から政権打倒されると危機感じたカストロが、1962年5月ソビエト連邦軍事的支援求めて核ミサイル搬入ミサイル基地建設入りその結果1962年10月キューバ危機を招くに至った2011年4月にはこのピッグス湾事件から50年記念した式典キューバ国内行われた

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「ウィーン会談」を含む「ピッグス湾事件」の記事については、「ピッグス湾事件」の概要を参照ください。

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