ウィーン会談
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ウィーン会談(ウィーンかいだん)は、厳しい冷戦のさなかであった1961年6月3日から6月4日にかけて、オーストリアのウィーンで行われた、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと、ソビエト連邦首相(共産党第一書記)ニキータ・フルシチョフの米ソ頂上会談である。両者の名をとって、ケネディ=フルシチョフ会談とも呼ばれる。
注釈
- ^ 1949年の東ドイツ成立から遡ると、1949年から1961年までで260万人、またこれ以前の1945年から1949年までを含めれば、トータル300万人に達すると見られている。フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 21P
- ^ アイゼンハワー政権の国務長官。対共産圏に対して封じ込め外交を展開した。
- ^ このケネディが言った言葉を、後で議事録を読んで知ったアメリカ政府高官は衝撃を受けたと言われている。トルーマンもアイゼンハワーも欧州が東西に分裂している現実を認めていなかったからで、この言葉は以後東欧はソ連の支配に入ることを認めてアメリカは一切関与しないことを意味する。「ベルリン危機1961」フレデリック・ケンプ著 311P
- ^ この当時、イランはパーレビ国王の時代で白色革命といわれた近代化を強権的に進め、イスラム化ではなく世俗化を推し進めていた。彼は1979年にこの当時パリに亡命していたホメイニ師を中心としたイスラム革命で追放されて、イランに新しい時代が訪れた。そしてアメリカはイラン革命の後に大使館占拠事件以降に国交を断絶した。
- ^ このポーランドに言及した際に、ケネディが言った言葉が、後日政権内で物議を醸した。つまり欧州の分割を受容可能で永続的なものと認める点で、トルーマンもアイゼンハワーも述べたことがない、最もあけすけな言明をしていた。ここまで踏み込んだ発言はしていなかった。フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 318P しかし現在から見ると、ここでお互いの勢力圏を確認し、相手の勢力圏には踏み込まないと自然に共通理解したことが、この直後のベルリン危機やキューバ危機での冷静な対応につながったとも考えられ、特にベルリンではフルシチョフは結局西ベルリンに踏み込むことはしなかった。また後述のベルリンの壁をケネディは会談後に予測し、それに対して反対の姿勢を取らなかった。
- ^ ここでフルシチョフは意味深な言葉を述べている。フレデリック・ケンペは著書「ベルリン危機1961」の中で、これはフルシチョフにしては珍しい失言だとしている。この1961年春の時点では中ソ間の対立はまだ西側には明らかになっていなかった。ソ連側は後にこの会談議事録作成の時に、「中国は我々の隣人であり、友人であり、同盟者である。」の語句を書き入れている。これは実際にはフルシチョフはひと言も発言しておらず、中国側へのソ連側の配慮であった。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」330P参照
- ^ 戦後すぐに米英仏ソの4ヵ国間でベルリンに関する協定を結び、お互いの管理区域を決めてその区域を跨ぐ場合の取り決めも定められて、公務員や軍人・軍属は一切身分証明を求められることはなく、この時までそのようなことは無かった。これは4ヵ国手続きに違反し、かつアメリカは東ドイツを承認しておらず、しかも実はソ連はそのような指示を行っておらず、平和条約の締結を放棄したフルシチョフへのウルブリヒト第一書記の怒りが一方的に入国審査を厳しくしたのである。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 213P参照
出典
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 127P
- ^ a b 「ケネディの道」
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 133-134P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 166-167P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 186-187P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 261P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 260-261P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 263-264P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 283-287P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 299-302P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 299-308P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 304.307-309P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 309-313P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 314P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 316-317P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 317-320P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 321P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 324-326P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 328P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 329-330P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 330-346P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 337P
- ^ 「米国政治のダイナミクス・上」158P
- ^ 『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』229P
- ^ 「ベルリン危機1961」下巻 13P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 356P
- ^ 「ベルリン危機1961」上巻 359P
- ^ 「ベルリン危機1961」下巻 42P
- 1 ウィーン会談とは
- 2 ウィーン会談の概要
- 3 会談の後
- 4 ケネディとフルシチョフ
- 5 脚注
ウィーン会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)
ピッグズ湾事件から2カ月の6月3~4日にオーストリアの首都ウィーンで、ケネディ大統領とフルシチョフ首相は最初で最後の首脳会談に臨んだ。この会談でケネディが持論であった大国同士の『誤算』が戦争を引き起こすことについて話すと、フルシチョフはキューバ問題について「バチスタを支持したことがキューバ国民の怒りがアメリカに向かっている理由です。キューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけである。わずか600万人のキューバがアメリカにとって脅威ですか?アメリカは他国の国内問題に介入する先例を作ってしまった。この状況は誤算を引き起こすことになる」と語り、ケネディはキューバの状況に関して判断ミスがありピッグス湾事件は誤りであったことを認め、両者は『誤算を生む可能性を排除すること』に同意した。 この時、ケネディは「私は政策判断をする場合に、ソ連が次に世界でどう動くかに基づいて下さなければならない。これはあなたがアメリカの動きに関して判断しなければならない場合と同様である。故にこの会談をこれらの判断により大きな正確さをもたらすのに役立つものとしたい」とフルシチョフに語り、そしてフルシチョフは「危険はアメリカが革命の原因を誤解した時にのみ起こるものだ」と切り返した。
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ウィーン会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 19:40 UTC 版)
ピッグス湾事件より2カ月後に、ウィーンで米ソ首脳会談が行われた。フルシチョフにとってはアメリカのピッグス湾事件の失敗で、ケネディに対して優位に立ったと判断して会談に臨んだ。ケネディにとっては失地回復の場としてフルシチョフとの個人的な折衝を通じて円滑な意思疎通が図れるようにするための会談でもあった。キューバ問題に関しての二人のやり取りは以下のようなものであった。 ケネディフルシチョフ首相がアメリカの動きを基にして判断しなければならないように、私はソ連が次にどう動くかに基づいて判断を下さねばならない。だからこれらの判断に、より大きな正確さをもたらすものにしなければならない。それによって国を危険に曝すことなく競争の時代を生き抜くことができる。 フルシチョフ危険はアメリカが革命の原因を誤解したときにのみ起こる。革命はすべて内発的なものであり、ソ連が作り出したものではない。キューバに対してアメリカはバチスタを支持し、このことがキューバ国民の怒りがアメリカに向かっているのです。大統領が決断したキューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけです。もともとカストロは共産主義者ではない。しかしアメリカの政策が彼を共産主義者に変えたのです。私も共産主義者に生まれたわけではない。資本主義者が私を共産主義者にしたのです。わずか600万人のキューバがアメリカにとって脅威ですか?アメリカがキューバに思いのまま自由に行動できるとすればアメリカ軍の基地があるトルコやイランにソ連が干渉するのも自由になります。この状況が大統領の言う誤算を引き起こすことになります。 ケネディ私はバチスタを支持していない。自分が懸念しているのはカストロが地域のトラブルの基地に変えてしまうことです。キューバがアメリカにとって脅威ではないのと同じくトルコやイランもソ連の脅威とはなりえない。 このピッグス湾事件後もケネディ政権はカストロ政権の打倒を目ざして、キューバ国内へのクーデター支援・政権打倒工作、ゲリラ攻撃、カストロ暗殺工作などマングース作戦と呼ばれる工作を続け、このままではアメリカ合衆国から政権を打倒されると危機を感じたカストロが、1962年5月にソビエト連邦に軍事的支援を求めて、核ミサイルの搬入とミサイル基地の建設に入り、その結果1962年10月のキューバ危機を招くに至った。 2011年4月にはこのピッグス湾事件から50年を記念した式典がキューバ国内で行われた。
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