イラン大統領選挙
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「マフムード・アフマディーネジャード」の記事における「イラン大統領選挙」の解説
詳細は「イランの大統領選挙 (2005年)」を参照 2005年、アフマディーネジャードは大統領選挙への出馬を表明した。宗教保守派と貧困層の双方から支持を集める事を目標に掲げ、選挙戦での標語は「やればできる」(ペルシア語: میشود و میتوانیم)に決定された。 テヘラン市長としての経歴を考えても政界での知名度が乏しい為に有力候補とは言い難く、そもそも市長職も直接選挙を経ていなかった。彼の頼みの綱は所属するイスラーム技術者集団、そして市長選で後ろ盾となったイラン・イスラーム同盟であった後にアフマディーネジャードは第2代最高指導者アリー・ハーメネイーから協力を取り付け、ハーメネイーはアフマディーネジャード派を支持する発言を行っている。 選挙宣伝においては常にポピュリズム(人民主義)に訴えかける戦術を用いて、「自らの生活の慎ましさ」を強調する為に第2代大統領モハンマド・アリー・ラジャーイーと比較するなどしている。アフマディーネジャードの支持者達は、彼が「謙虚で質素な生活を送っている」と主張している。後に大統領に就任した時ですら警備上の問題を指摘されるまでテヘランの自宅に留まり、また大統領宮殿では自宅から持ち込んだ古い絨毯を使い、大統領専用機ではなく貨物機を移動に使用させていた。これについてはラジャーイーの家族から抗議を受けている。 また宗教的に自身を「原理主義者」であるとし、イスラーム的およびイスラーム革命的諸原理に基づいた政治を行うと言明している。政策目標として掲げたものの一つが「石油収入を人々の食卓へ」であって、石油収入の貧困層への分配に言及した。熱心なシーア派教徒としても振る舞い、後に最初の閣議を聖地マシュハドで行わせている。また同じく選挙後には次のように宣言している。「殉教者の血に感謝を。新たなるイスラーム革命が勃発した。1384年(当年)のイスラーム革命は神が望まれるならば世界の不正の根を取り除くだろう」「イスラーム革命の波は全世界に届くだろう」とも発言している。 対外的にも強硬路線を主張し、対米関係改善に反対を表明した唯一の候補者でもある。イラン・イスラーム共和国放送による選挙直前の政見放送インタビューでは国連についても「一方的で反イスラーム世界的に仕組まれている」と発言、特に安全保障理事会常任理事国5か国のもつ拒否権への反対を明らかにし、同じインタビューで「世界の認めることをわずかな国が審理し拒否するということは公正ではない。このような特権が存続すべきであるならば、15億の人口を擁するイスラーム世界にも同じ特権が必要だ」と述べている。イランの核開発計画も継続を主張、「少数の傲慢な勢力」がイランの産業・技術の発展をこの分野のみならず制限しようとしていると非難した。決選投票前の運動期間中には「我々は個々の政府の革命に関わろうとしているのではない。……この革命は世界大の政府に至ろうとするものだ」と述べている。また外交関係の改善のためにテロとの戦いによる連帯を推進することを計画しているとし、同時に周辺諸国との関係拡大、ビザ要件の撤廃と相互免除などを「人々は望むところに自由に赴くことが可能であるべきである。人々は巡礼、旅行において自由であるべきだ」として主張した。 アフマディーネジャードのこうしたイデオロギーの精神的指導者としてはゴムの高位ウラマーであるアーヤトッラー・モハンマド・タギー・メスバーフ・ヤズディーが挙げられ、アフマディーネジャード自身も認めている。メスバーフ・ヤズディーはイランでのハッガーニー学派の創始者であり、その一派は2005年の大統領選挙において、アフマディーネジャードを強く支持した。
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