アメリカ西部の探険
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:08 UTC 版)
「ジョン・C・フレモント」の記事における「アメリカ西部の探険」の解説
フレモントは、アメリカ合衆国西部の多角的測量の遠征を手伝い、また率いた。1838年と1839年、彼は、ミシシッピ川とミズーリ川の間の土地を探険するフランス人地理学者、ジョセフ・ニコレット(en:Joseph Nicollet)の手助けをし、1841年、ニコレットからの訓練で、フレモントはミシシッピ川の支流のデモイン川の大部分を地図にした。 1841年から1846年、フレモントと彼のガイドのキット・カーソンは、オレゴン・トレイルを通ってシエラネバダ山脈に入る遠征隊を率いた。シエラネバダの探険の間、フレモントはタホ湖を見た最初のヨーロッパ系アメリカ人になったことは広く認識されている。彼はまた、グレートベースンは海への水のはけ口がないことを究明し、セント・ヘレンズ山などの火山も地図に起こした。 1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着した。当時のカリフォルニアはメキシコ領で、首都のメキシコシティからは遠く離れ、人口わずか1万人の辺境の地だった。フレモントは、ホセ・R・ベレイェサとラモンとフランシソの双子のデ・ハロ兄弟(最初のサンフランシスコ知事フランシスコ・デ・ハロ(en:Francisco De Haro)の息子)の3名の民間人の殺害を、現在のサンラフェル(San Rafael)の近くで命令した。この殺人は、フレモントの政治生命を妨げ、彼が望んだ最初のカリフォルニア州のアメリカ人知事の地位に就くことを阻んだ。半世紀後にこの殺人について書いた歴史家、ロバート・A・トンプソンは、「カリフォルニア州民は、この日のことを激しい情抜きでは口には出せない」と記している。 その同年、フレモントはカリフォルニア軍事総督のカストロに探検の許可を求め、カストロもいったんはこれを許可するが、後にカストロは、フレモントのカリフォルニアでの行動に疑問を感じ、探検の許可を撤回する。しかし、フレモントはこれを無視して探検を断行。さらに、地元の入植者を独立運動を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせたという。これは、米墨戦争の発端となった。 ウィリアム・アイダひきいるカリフォルニアの反乱軍は1846年6月6日、カリフォルニア共和国の独立を宣言するが、同国は7月5日、ロバート・F・ストックトン海軍准将ひきいるアメリカ艦隊の上陸とともに合衆国に吸収されていく。その後、合衆国騎馬ライフル部隊(U.S. Mounted Rifles)、後の第3機甲騎兵連隊(3d Armored Cavalry Regiment))の中佐となったフレモントは、ストックトンの指揮下で行動し、米墨戦争の間、カリフォルニア州サンタバーバラの占領のため300名の軍事遠征隊を率いた。彼は部隊とともにサンマルコス峠(en:San Marcos Pass)を通ってサンタイネス山脈(en:Santa Ynez Mountains)を越え、砦と町を占領した。1847年1月、この戦争で負けたアンドレ・ピコ将軍は、負傷者を増やすことを避けて後に降伏し、カフエンガ条約を調印、カリフォルニアにおける米墨戦争は終結する。 1850年、地形測量工兵隊(Corps of Topographical Engineers)の一員として北アメリカ大陸西部において地理学へ貢献したとして、フレモントはイギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた。
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