アフリコ・ヴェッキオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/29 02:19 UTC 版)
アフリコ (Africo) という地名の由来ははっきりしない。ある説によれば、「開けた」「日当たりがよい」といった意味を持つラテン語 apricus から来ているという(この語はさらにギリシャ語の aprokos にさかのぼる)。また別の説では、ラテン語で「アフリカから吹く風」を意味する africus ventus に由来すると信じられている。 本来のアフリコの集落(アフリコ・ヴェッキオ)は、9世紀ごろにデリア(現在のボーヴァ)から移り住んだ人々によって建設された。1195年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によって、この地はレッジョ・カラブリア大司教に封土として与えられた。以後、1806年にカラブリアの封建領主制度が解体されるまで、その状態であった。 1783年のカラブリア地震 (1783 Calabrian earthquakes) では町の一部が損壊し、6名の死者が出た。地震による被害は1905年、1908年(メッシーナ地震)にも出ている。 20世紀前半、アフリコはカラブリア内陸部住民が置かれた悲惨な状況(飢餓・水害・放浪・離散)の象徴として語られるようになる。1931年、カラブリアの著述家コラード・アルバロは、アフリコを苦しめた飢餓を描いている。1946年、Umberto Zanotti Bianco はアフリコの人々についての著書 Tra la perduta gente を出版し、切迫した状況と飢餓を描いている。これらの本が出版された当時、アフリコの街への交通も整備されてはおらず、ラバに6 - 7時間ゆられるほかに手段はなかった。 1948年、ジャーナリストの Tommaso Besozzi と写真家の Tino Petrelli は、雑誌『L’Europeo』に Africo, symbol of disparity と題するドキュメンタリー記事を掲載し、アフリコの人々の悲惨な状況と飢餓を描いた。一連の記録写真が伝えた状況は国民世論に強い衝撃を与え、「南部問題」の再認識に結びつくこととなった。
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