アケメネス朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:57 UTC 版)
新バビロニア帝国からアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)時代に至る一連の戦争で、アッシュルを含むアッシリアの主要都市が破壊されたが、全てのアッシリア人が全滅させられたような事態が発生していないことは明らかである。新バビロニア時代の経済文書の多くに、(主に人名に含まれる神の名によって)アッシリア人であることが判別できる人々が登場し、その総数は100名を超える。メディア人がペルシア人に古代イランにおける支配的な地位を奪われた後、アッシリアはアケメネス朝ペルシア帝国に征服され、前549年から前330年まで支配された。 アッシリア帝国崩壊後のアッシリアの政治的地位がどのようなものであったのかほとんどわかっていないが、アッシュルでは(他のいくつもの都市と同じように)古い神々への崇拝は生き続けた。旧アッシリア帝国領は西部を新バビロニア、中心部及び東部をメディアに分割され、その後新バビロニアに支配されていた地域はアケメネス朝の下でアスラ―(英語版)と呼ばれるサトラペイア(属州、総督領)を形成した。この名称は帝国アラム語でアッシリアを指す「Athur」から来ている。メディアに支配されたアッシリアの中枢部はマーダ(メディア)のサトラペイアにそのまま組み込まれていた。 マーダ(メディア)とアスラ―(アッシリア)に分かれていたアッシリア人たちはそれぞれに軍務や建築普請に参加したが、興味深いことに宮殿の装飾作業はマーダのアッシリア人が、レバノン杉の木材の供給はアスラーのアッシリア人がそれぞれ担当していた。高位につくアッシリア人もおり、アケメネス朝の王クル2世(キュロス2世)の王子カンビュセスの秘書(secretary)はパン・アッシュル・ルムル(Pan-Ashur-lumur)という名のアッシリア人であった。
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