アウスグライヒとは? わかりやすく解説

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アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 19:05 UTC 版)

アウスグライヒ (ドイツ語: Österreichisch-Ungarischer Ausgleichハンガリー語: Kiegyezés) は、1867年ハプスブルク君主国を構成するオーストリア帝国ハンガリー王国間で結ばれた協定、ないし一連の政策。ハンガリー語では「キエジェゼーシュ」と言い、ともに日本語で「妥協」「和協」等と訳される[1]。但し歴史学では、敢えて訳さずに「アウスグライヒ」と記述することも多い[2]。これ以降、国家の正式名称はオーストリア=ハンガリー君主国(二重君主国、二重帝国とも称される)となり、この体制は第一次世界大戦の敗北に伴う国家消滅(1918年)まで継続する。


  1. ^ 稲野強「アウスグライヒ」柴宜弘ほか監修『東欧を知る事典』(平凡社、2015年)8ページ。
  2. ^ 代表として、大津留厚『ハプスブルクの実験』(中公新書、1995年)参照。
  3. ^ 小沢弘明「第六章:二重制の時代」南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年)222ページ。
  4. ^ 矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究』(岩波書店、1977年)349ページ。
  5. ^ 武藤真也子・馬場優「ハプスブルクの軍制と外交」大津留厚ほか編『ハプスブルク史研究入門』(昭和堂、2013年)146ページ。


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アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「アウスグライヒ」の解説

帝国内の諸地域では、民族主義高揚し反政府運動盛んになっていた。プロイセン敗戦したことによる諸々喪失は、自国支配する能力にも影響及ぼしたのであるとりわけ警戒要したのは、皇帝対す恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンこのような状況下において、ベーメンチェコ人組んでハンガリー抑えるか、ハンガリーマジャル人組んでスラブ民族抑えるかという二者択一迫られることになった民族人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンブダペスト近さなどからみて、ハンガリーとの協調適切だ考えられた。また、皇后エリーザベトハンガリー愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉プロイセンとの戦前ら行われており、オーストリアプロイセン大敗した後も、ハンガリー足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めたフランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し二重帝国中央官庁としては共同外務省共同財務省設置する一方外交・軍事財政以外の内政ハンガリーに対して大幅に認めた1867年6月フランツ・ヨーゼフエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事最中メキシコ皇帝となったマクシミリアン処刑されたという知らせ受けたフランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた具体的な構想提出され帝国連邦制改めドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ猛烈な反対に遭い断念せざるをえなかった。

※この「アウスグライヒ」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世」の解説の一部です。
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アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「アウスグライヒ」の解説

帝国内の諸地域では、民族主義高揚し反政府運動盛んになっていた。プロイセン敗戦したことによる諸々喪失は、自国支配する能力にも影響及ぼしたのであるとりわけ警戒要したのは、皇帝対す恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンこのような状況下において、ベーメンチェコ人組んでハンガリー抑えるか、ハンガリーマジャル人組んでスラブ民族抑えるかという二者択一迫られることになった民族人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンブダペスト近さなどからみて、ハンガリーとの協調適切だ考えられた。また、皇后エリーザベトハンガリー愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉プロイセンとの戦前ら行われており、オーストリアプロイセン大敗した後も、ハンガリー足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めたフランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し二重帝国中央官庁としては共同外務省共同財務省設置する一方外交・軍事財政以外の内政ハンガリーに対して大幅に認めた1867年6月フランツ・ヨーゼフエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事最中メキシコ皇帝となったマクシミリアン処刑されたという知らせ受けたフランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた具体的な構想提出され帝国連邦制改めドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ猛烈な反対に遭い断念せざるをえなかった。

※この「アウスグライヒ」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の解説の一部です。
「アウスグライヒ」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の概要を参照ください。

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