アウスグライヒ
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アウスグライヒ (ドイツ語: Österreichisch-Ungarischer Ausgleich、ハンガリー語: Kiegyezés) は、1867年にハプスブルク君主国を構成するオーストリア帝国とハンガリー王国間で結ばれた協定、ないし一連の政策。ハンガリー語では「キエジェゼーシュ」と言い、ともに日本語で「妥協」「和協」等と訳される[1]。但し歴史学では、敢えて訳さずに「アウスグライヒ」と記述することも多い[2]。これ以降、国家の正式名称はオーストリア=ハンガリー君主国(二重君主国、二重帝国とも称される)となり、この体制は第一次世界大戦の敗北に伴う国家消滅(1918年)まで継続する。
- 1 アウスグライヒとは
- 2 アウスグライヒの概要
- 3 概要
- 4 関連項目
アウスグライヒ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「アウスグライヒ」の解説
帝国内の諸地域では、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた。プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼしたのである。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになった。 民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた。フランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年にハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。 1867年6月、フランツ・ヨーゼフはエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事の最中、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンが処刑されたという知らせを受けた。 フランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコやポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた。具体的な構想が提出され、帝国を連邦制に改めるドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラの猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった。
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アウスグライヒ
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「アウスグライヒ」の解説
帝国内の諸地域では、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた。プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼしたのである。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになった。 民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた。フランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年にハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。 1867年6月、フランツ・ヨーゼフはエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事の最中、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンが処刑されたという知らせを受けた。 フランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコやポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた。具体的な構想が提出され、帝国を連邦制に改めるドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラの猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった。
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