ベルサイユ‐じょうやく〔‐デウヤク〕【ベルサイユ条約】
【ベルサイユ条約】(べるさいゆじょうやく)
第一次世界大戦に敗れたドイツと連合国との間で結ばれた講和条約。
フランスのベルサイユ宮殿で調印されたことからこう呼ばれる。
この条約を元にして、翌年、国際連盟が発足した。
1919年、パリ講和会議において第一次世界大戦に関する戦後処理が話し合われ、ドイツはこれにより
- 徴兵制の廃止
- 陸軍の兵力は10万人以下(将校は4,000人以下)
- 海軍の兵力は1.5万人以下
- 全軍用航空機の廃棄処分及び空軍の禁止
- 軍艦の保有は36隻以下
- 潜水艦の保有禁止
- 参謀本部の廃止
- 各種軍需物資の生産の制限
- バルト海沿岸における軍事施設の建設禁止
- 海外植民地の放棄
- 賠償金の支払い(具体的な金額は後日協議)
- 一部領土の割譲
- 元ドイツ皇帝・ウィルヘルム二世を戦犯として引き渡す(自身がオランダへ亡命したため実現せず)
など、全247ヶ条からなる講和条約を結ばされた。
しかし、その実態は連合国の既得権益確保と上記のようにドイツに対する極めて厳しい制裁を課すものであった。
ドイツは暫定的に200億マルクの賠償金を支払うとされていたが、1921年に賠償金額策定委員会によって更に増額され、合わせて1320億マルクとなった。
これは当時のドイツのGNP(国民総生産)20年分に匹敵し、現在の価値にすると7800億ドル相当(1ドル=79円換算で約62兆円)という莫大なものであった。
この支払のため、ドイツの中央銀行「ライヒスバンク」は紙幣を大量発行し、その結果「朝と夕方で物価が違う」とまでいわれた凄まじいインフレに陥り、経済が大混乱した。
その後、賠償額は順次軽減され、最終的に「1988年までに合計30億マルクを支払う」こととされたが、ナチ政権が支払を拒絶したことと第二次世界大戦、及び米ソ冷戦による混乱のため、支払いは中断。
1990年のドイツ再統一後に利子の支払が再開され、2010年にようやくアメリカへの債務が完済された。
また、これに合わせて列強の利害関係に伴う様々な個別の条約が結ばれ、その後のヨーロッパはベルサイユ体制と呼ばれ、そのいびつな状態が第二次世界大戦の遠因となったとも言われている。
関連:ワイマール共和国 ドイツ革命 ベルサイユ体制
余談
フランス・スペインの国境にあるアンドラ公国は、連合国陣営に加わって大戦に参加していたが、軍の総兵力が11名とあまりにも小さいために存在を忘れ去られ、条約締結に呼ばれなかった。
そのため、同国は形式上「第一次世界大戦を継続したまま第二次世界大戦にも参戦した」ことになってしまった。
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