その他の信長の子の末裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:27 UTC 版)
信長の三男・信孝は、秀吉との抗争に破れたのち天正11年(1583年)に自害。四男・羽柴秀勝(於次丸)は、天正13年(1585年)に病死。五男・信房(勝長)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条城で戦死した。信房の長男・勝良は前田利長に仕え、600石を知行した。 信長の六男・信秀から十一男・長次までの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で、息子たちの多くは西軍に属して没落した。 六男・信秀は、父信長より美濃の揖斐に所領を与えられた。秀吉が権力を掌握すると、近江国栗太郡に移された。関ヶ原以前に死去。長男の重治は理由不明ながら父の遺領を継げず、次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、家は絶家となった。 七男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。 八男・信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石を与えられる。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱した。戦後に改易となり、長男・良甫の子である吉雄は京極高国の家臣になった。 九男・信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易。長男・信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えた。 信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1,000石余が与えられ旗本(のちに高家)となった。後に分知により700石余りに減った。 貞置の三男・貞則、四男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。 貞置の孫・津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟瑟(津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期の画家として知られる。 十男・信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死。十一男・長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死した。ほかに信忠の上に、庶長子で信正がいたという説があるが、実在したかまた信長の実子か不明である。
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