『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期)
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1975年、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。 1976年、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。 レコード会社を東芝音工からポリドールに移籍、3年1ヵ月振りのシングル「スローバラード」、3年4ヵ月振りの3rdアルバム『シングル・マン』をリリース。 更にキティレーベル(後のキティレコード)に移籍、シングル「わかってもらえるさ」を発売するが、すぐにそれらは廃盤となる。 『シングル・マン』には契約上クレジットされなかったが、タワー・オブ・パワーやミッキー吉野、柴田義也らが参加。「わかってもらえるさ」ではメンバーに破廉がクレジットされているものの、破廉は極度の鬱状態でギターが弾けず、ギターはすべて忌野が弾いた。 上記のゲストミュージシャンを記載できなかったため「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書かれている。 ジャケットに使われているイラストは幼児児童絵画統覚検査図版(金子出版)のもの。元本は忌野が探してきた。ジャケットに描かれているRCサクセションのロゴも忌野がデザイン。 5万円で買った忌野の愛車日産・サニークーペが廃車となる。井上陽水のアルバム「氷の世界」に提供した2曲の印税で買ったと言われる。その愛車をモデルに、この頃「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。 その後も忌野は2台続け中古のサニークーペを購入。当時一番安い中古車だったからである。 当時、唯一の活動と言ってもよかったのが矢沢永吉、井上陽水等の前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「クソッタレ」「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。矢沢永吉の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや観客から「帰れ」コールが浴びせられた。忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。永ちゃんはいま楽屋でクソしてるんで僕らがやりまーす」と発言。客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を喰らう。 破廉ケンチ脱退(実際は破廉の鬱症状があまりにも酷く、それが原因でエレキギターが弾けない事を見かねた忌野が馘にした)。 1978年頃から当時カルメン・マキ&OZの春日博文、古井戸の仲井戸麗市をサポートギタリストに迎え渋谷のライブハウス「屋根裏」を中心に活動。若年層を中心に絶大な支持を得てライブは連日連夜満員となる。同時期にドラマーの新井田耕造が加入。 当時の忌野は「シングル・マン」以降の暗黒期に行き詰まり複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っていた反省から、シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねた。この頃、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンに影響を受け、それまで長くしていた髪を切り落とす。ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになった。
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