「名人」となった紀昌に寓意を見る説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:56 UTC 版)
「名人伝」の記事における「「名人」となった紀昌に寓意を見る説」の解説
山下真史は、「寓話作者」を名乗って作中に登場する語り手と作者である中島を区別することを提唱している。山下によれば、紀昌を名人と信じている「寓話作者」の語りたい寓話の内容は「名人になるということは、究極のところ...弓すら忘れるということ」なのだが、真の作者にとっての主題は「飛衛の言葉だけを妄信して紀昌を名人に祭り上げ...名人を偶像化する人々の姿」なのである。この真の作者の視点からすれば「紀昌が名人であるということを信じている...語り手も滑稽なのである」(「信頼できない語り手」)。山下によれば、「『名人伝』は、名人を純粋さの体現者とする通念に対して、名人を突き詰めれば木偶に至るということ、そしてその名人を偶像化することの滑稽さを描いた作品である」ということになる。 青木純一は、この作品で記されていることは、行動の言語(弓の修練の過程)習得によって自意識は滅し得るが、その結果「名人」となった人間は「木偶」に等しいというアイロニーであると述べつつ、「名人」となった紀昌は、自意識の寓意を描いた『文字禍』のエリバ博士とは対極に位置するように見えるものの、共に「非人間的な」存在の「木偶」や「妖怪」である点では変わりないとしている。そして、自意識の過剰な運動は生命の衰弱を招きかねないものだが、自意識そのものは滅し去るべきものではないということが小説家中島の立脚点であるとして、『李陵』や『光と風と夢』の人物造形を鑑み、「人間は自意識の苦悩、迷妄、決意を通じても歴史の人間的な恒久の真実に触れることができる、少なくともその光の中に立つことはできる」と中島は信じたのではないかと考察している。
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