T-35重戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 14:35 UTC 版)
生産
T-35の生産タイプには2種類ある。
- T-35A (1933年型) - 55輛生産。
- T-35円錐砲塔型 (1939年型) - 6輛生産。特に円錐砲塔型はT-34に取り入れられた傾斜装甲を採用し防御効果を上げている。
また、SU-14-BR2自走砲という、T-35の車体に152 mm榴弾砲を搭載した自走砲が1輛だけ作られている。
年別の生産量(試作車除く)
- 1933年 2輛
- 1934年 10輛
- 1935年 7輛
- 1936年 15輛
- 1937年 10輛
- 1938年 11輛
- 1939年 6輛(円錐砲塔型と思われる)
改良
T-35はその大きさや重さの割りに脆弱なエンジンがオーバーヒートするなど、特に駆動系の故障が多く、稼働率はあまり高くはなかった。1937年になるとT-35にも改良が施され、ギアボックス、電装品、ドライブシャフト、給油タンク、消音器などが改良を受け、信頼性が向上した。
T-35は重戦車の割に装甲が脆弱だったが、T-28とは違い、重量の限界などの理由で装甲や武装をこれ以上強化することは出来なかった。また、以後のソ連軍重戦車に共通することだが、改良されてはいるもののその重さのためエンジンやトランスミッションの耐久性、安定性はまだ不安な部分が多かった。
欠点
T-35重戦車には、貧弱な装甲や重量過大による機動力・信頼性の低さの他にも、数々の欠点があった。
- 巨大なため容易に敵に発見されまた攻撃も受けやすい
- 複雑な構造のため内部が狭く居住性が悪い
- 砲塔が互いに邪魔をしあうため射界が狭い
- 乗員がそれぞれの砲塔に分かれて乗り込むため連携が難しい
- 砲塔の指向する方向によっては乗員の脱出が困難になる
これらは多砲塔戦車という形態をとる限り解決が難しいものであった。以降ソ連ではT-35の後継としてT-100やSMKといった車両が作られるがいずれも欠点の改善などがされないなどの事情から実用化されず、重戦車の流れは多砲塔戦車から単砲塔戦車へと移っていくことになる。
配備
61輌生産されたT-35は、全車が首都モスクワを防衛する第5独立重戦車旅団に配備された。1935年から運用に入ったが、1939年のフィンランドとの冬戦争でT-100やSMKなどの多砲塔戦車が全く戦果をあげられなかったこともあって1940年6月にはこの重戦車の実用性について疑問が浮かび、第一線からは退くこととなった。この頃になるとスターリンも多砲塔戦車に対して否定的な見方を持つようになり『君たちは何故戦車の中にミュール・アンド・メリリズ(モスクワの百貨店。現ツム百貨店)など作ろうとするのかね』と皮肉をこぼし、以後ソ連でも多砲塔戦車の開発は打ち切られた[注釈 1]。
その後、T-35は自走自衛火砲として運用が続けられることが決定され、一部は再び前線運用に入った。残る車輌は、軍事アカデミーへ教材として提供された。実戦部隊へ配備となった車輌は、キエフにあった第8機械化軍団隷下の第34戦車師団第67戦車連隊および第68戦車連隊へ配属された。
注釈
- ^ このスターリンの発言に関しては、発言時期などから直接的な影響に関しては意見がわかれる。
出典
- ^ “Russia's T-35 unique heavy tank recreated by Soviet design at Ural company”. TASS. (2016年1月19日) 2018年5月2日閲覧。
固有名詞の分類
- T-35重戦車のページへのリンク