T-35重戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 14:35 UTC 版)
実戦
完成時期から推測して冬戦争にも投入されたという説もあるが、これは誤りとされている。実戦投入された記録が残っているのは、独ソ戦(大祖国戦争)初期のことであった。
しかし、ウクライナを戦場とした初期の戦闘においてT-35は設計上の欠陥から思うような働きができず、エンジンや変速機の故障などによって多くの車輌が行動不能に陥り遺棄または、乗員により自爆させられた。
この戦いで多くのT-35が失われたが、その後、上記の自走砲を含む少数の生き残りがドイツ軍の侵攻を食い止めるためモスクワの戦いに参加した。
なお、1945年の4月にも実戦記録が残されている。これは独ソ戦初期においてドイツ軍に鹵獲、クンメルスドルフ試験場に送られて試験の後保管されていた車輌で、ルノー D2などと共にツォッセンでの戦闘に投入された。
パルチザンによる運用
T-35がウクライナに所在する部隊に配備されていたことから、独ソ戦の初期に西ウクライナ・リヴィウ郊外において1 輌のT-35が反ドイツ・反ソ連のウクライナ人パルチザン組織、ウクライナ蜂起軍(UPA)に接収されている。
車輌は、覆帯の切れた状態で捕獲されており、のちに修復されたようである。「ステパーン・バンデーラのT-35」と呼ばれるように、当初、覆帯側板には「ステパーン・バンデーラに栄光あれ」というスローガンがウクライナ語で書かれていた。また、起動輪にもウクライナ語で「ウクライナに栄光あれ」と書かれていた。しかし、写真によればこのようなスローガンには覆帯の修復の際に消されたようで、砲塔に描かれた白い三角形の標識のみが残されている。これは、当時のこの地域で捕獲されたソ連戦車に共通の標識であった。
「ステパーン・バンデーラのT-35」については諸説あり、中には「ステパーン・バンデーラの戦車のエピソードは伝説に過ぎない」という主張もある。しかし、実際に写真が残されていること(恐らくモンタージュではない)、UPAでは他にも2 輌のT-34、ドイツ製の戦車や装甲兵員輸送車(ともに型式不詳)を複数捕獲し運用した記録が残っていることから、UPAに戦車運用能力がなかったということはなく、T-35が運用されたという記録も反対派が言うような全くのデマということはないようである。しかし、一方でこのT-35の「活躍」が伝説化していることも事実であり、実際にどの程度運用されたのかについては疑いが残る。また、一部の情報によれば捕獲されたT-35は76.2 mm主砲を撤去されているか、もしくは使用できない状態にされていたという。
リヴィウ郊外において覆帯の切れたT-35がUPAによって捕獲され、スローガンを書かれたり修理を受けたりした、という以上のことを結論付けるには現在の研究では情報が不足している。なお、多くの資料では捕獲されたT-35を「1934型」かそれに準ずる初期型としているが、写真で確認される限りにおいてそれは後期型である。写真の解説によれば、これは「1938年型」であるとされている。
注釈
- ^ このスターリンの発言に関しては、発言時期などから直接的な影響に関しては意見がわかれる。
出典
- ^ “Russia's T-35 unique heavy tank recreated by Soviet design at Ural company”. TASS. (2016年1月19日) 2018年5月2日閲覧。
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