1997年のF1世界選手権
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シーズン概要
ウィリアムズから参戦したジャック・ヴィルヌーヴが、フェラーリのミハエル・シューマッハとの激しい争いを制してワールドチャンピオンに戴冠したシーズンである。ワールドチャンピオン争いはシーズン最終戦までもつれ、コース上での物議を醸した接触によって決着がつき、その影響でシューマッハのシーズン成績が最終的にランキングから除外されるという事態となっている。コンストラクターズチャンピオンシップもウィリアムズとフェラーリの間で白熱した展開となり、両チームのセカンドドライバーの働きにも大きな注目が集まったシーズンでもあった。結局、コンストラクターズチャンピオンシップもウィリアムズが戴冠し、2年連続でダブルタイトルを獲得している。その一方でエンジン供給をしていたルノーは、この年限りでF1ワークス活動を終了している。ドライバーでは、ゲルハルト・ベルガーがこのシーズン限りで引退(本人は休養と宣言)し、ミカ・ハッキネンは最終戦のチャンピオン争いの裏で、F1参戦7年目にして初優勝を達成した。また、このシーズンから日本のブリヂストンがF1に参戦し、1991年シーズンを以ってピレリが撤退して以来のタイヤメーカーの競争がF1で見られるようになり、ブリヂストンタイヤユーザーのオリビエ・パニスやデイモン・ヒルが好走を見せたシーズンでもあった。
ヴィルヌーヴ対シューマッハ
開幕から前半戦
このシーズンは開幕戦こそマクラーレンのデビッド・クルサードが制したものの、第2戦ブラジルGPからシーズン折り返しの第9戦イギリスGPまでは、ウィリアムズのヴィルヌーヴとハインツ=ハラルド・フレンツェン、そしてフェラーリのシューマッハの3人で星を分け合う展開となっている。ヴィルヌーヴは第9戦までに4勝を記録するも、リタイアも4度喫するという成績となり、新加入のフレンツェンは第4戦サンマリノGPで初優勝を達成したものの、開幕戦ではトップ走行中にピット作業が遅れ順位を落とした後、ブレーキローターの破損でリタイア(8位完走扱い)。以降も速さの面ではヴィルヌーヴの後塵を拝すことも多く、チャンピオン争いに絡むことができなかった。結果、第9戦終了時点では、3勝も含め、完走したレースをすべて入賞していたシューマッハがポイントリーダーに立ち、ドライバーズチャンピオンシップはシューマッハ対ヴィルヌーヴという展開となった。
後半戦以降
シーズン後半だが、シューマッハは第12戦ベルギーGPの優勝を含め、第10戦ドイツGPから第13戦イタリアGPの4戦すべて入賞圏内で完走していたうえ、第11戦ハンガリーGP以外の3戦はヴィルヌーヴの前で先着していたため、少しづつポイント差を広げることとなり、第13戦終了時はシューマッハが1勝分(10ポイント)リードしていた。だが、第14戦オーストリアGPと第15戦ルクセンブルクGPにてヴィルヌーヴが首位争いをしていた相手側のリタイアもあってそのまま優勝。それに対し、シューマッハは第14戦は黄旗追い越し違反によるタイムペナルティの影響で6位入賞(1ポイント)で終わり、第15戦も決勝スタート直後の第1コーナーにて、ジョーダンのチームメイト同士による接触事故に巻き込まれてしまう形となってリタイアとなったことで第16戦日本GPにおいて、ヴィルヌーヴのチャンピオン決定の可能性が生まれることとなった。
そのため、ヴィルヌーヴはシューマッハより前の順位でゴールすれば、チャンピオンが決定するという条件下(優勝ならチャンピオン決定)で日本GPを迎えた。予選はヴィルヌーヴがPPを獲得し、シューマッハが2位に入り、チャンピオンを争う両者がフロントローに並ぶ結果となった。しかし、土曜日予選終了後、審判団からヴィルヌーヴの日本GPからの失格処分が発表されるという事態が起こってしまう。土曜日午前中のフリー走行にて、クラッシュした車両の撤去作業のためイエローフラッグが出されたが、イエローフラッグ中にタイムを更新した全てのドライバーにペナルティを課す決定を下した。ヴィルヌーヴには過去の違反の累積があったため、日本GPからの失格の判定が下されたのであった。ウィリアムズは国際控訴裁判所に控訴し、暫定的にヴィルヌーヴの出走が認められることになったが、この失格の裁定がヴィルヌーヴのレース戦略に大きな影響を与えることになり、決勝の方はヴィルヌーヴが5位入賞で終わったのに対し、シューマッハは決勝で逆転する形となり優勝という結果となった(詳細は1997年日本グランプリ (4輪)参照)。
第16戦に関しては、ヴィルヌーヴは最終的に失格となったため、第16戦はノーポイントということになり、最終戦のヨーロッパGPをわずか1ポイントの差で迎えることになった。チャンピオン決定の条件は同ポイントの場合、優勝回数が多いヴィルヌーヴが戴冠するという条件があった。予選前のフリープラクティスではフェラーリのアーバインがヴィルヌーヴに対してわざと頭を抑えるような走りを見せたため、降車後ヴィルヌーヴがアーバインに対して抗議に詰め寄る場面も見られた。予選は、ヴィルヌーヴ、シューマッハ、フレンツェンの3人が1000分の1秒まで同タイムで並ぶという結果となり、「予選同タイムの場合、先に記録した順のグリッドとなる」というレギュレーションにより、PPはヴィルヌーヴ、2位シューマッハ、3位フレンツェンと決まった(アロウズのデイモン・ヒルが最終計時までタイムを更新していたが、ミナルディの片山右京が最終コーナーでスピンしたのを避けたため、0.058秒差の4位に留まっている)。
決勝は2位スタートのシューマッハが1コーナーまででヴィルヌーヴをパスし、レースをリードする隊列となったものの、この日は日本GPとは逆にウィリアムズ陣営が戦略通りに持ち込む展開となっていく。まずはチームオーダーにて3位に落ちていたヴィルヌーヴを2位のフレンツェンの前に出させると、シューマッハとヴィルヌーヴの1回目のピットストップにてフレンツェンがトップに躍り出てレースをコントロール。先頭でフレンツェンがペースを抑えたことによって、遅れていたヴィルヌーヴがシューマッハの背後に追いつく展開となる。 レースが進み2回目のピットインが終わってみると、シューマッハはピット作業が速やかに終わったことでややリードを広げることができたものの、タイヤのグリップが悪く伸び悩み、ヴィルヌーヴが再びシューマッハの背後に迫ることに成功した。そうした展開の48周目のバックストレートにて、ヴィルヌーヴがシューマッハのスリップストリームからインに飛び込み追い抜きをかけたものの、シューマッハはアウト側からマシンを被せ、両者は接触。この接触によりシューマッハはコース外のサンドトラップに外れるとタイヤが空回りする状態となってしまいコースへ復帰できず、この場でリタイアが確定することになってしまった。シューマッハのリタイアによりヴィルヌーヴは6位以上でゴールをすればチャンピオン戴冠となる条件下となり、有利な状況となったヴィルヌーヴはマシンの接触によるダメージとタイヤに発生したブリスターの影響も考慮し、慎重にレースを展開。最終周回にて猛追してきたマクラーレンのハッキネンとクルサードに前を譲り、3位にてフィニッシュして逆転にてチャンピオンを確定させ、F1参戦2年目にして栄光を掴んでいる。
シーズン終了後、最終戦の48周目の両者の接触について、シューマッハが故意に接触したのではないかという論争が巻き起こり、FIAでも調査が行われた。その結果、シューマッハの行為に対してFIA側は「未必の故意」があったと裁定し「ドライバーズランキングからの除外」という厳罰が下されている(シューマッハの通算個人成績やコンストラクターズポイントはそのまま有効とした)。
ブリヂストンタイヤ参戦
この年から日本のタイヤメーカー・ブリヂストンが参入し、1991年シーズン一杯でピレリが撤退して以来のタイヤメーカーの競争がF1で見られることとなった。トップチームは従来通りのグッドイヤーと契約したものの、5チーム(プロスト・スチュワート・グランプリ・ミナルディ・アロウズ・マスターカードローラ)に供給することとなった。両社のタイヤは路面温度上昇時において、顕著な差を見ることができた。グッドイヤーは高温時にブリスターが起きやすかった傾向があったのに対し、ブリヂストンのタイヤは高温時においても耐久性において優位性を示すことに成功している。
ブリジストンタイヤユーザーでは、プロスト・グランプリのオリビエ・パニスが第2戦ブラジルGPから3戦連続で予選5位以内を確保し、決勝でもブラジルGPで3位、スペインGPでは2位と第6戦までに2度表彰台に立つなど活躍。また、アロウズのデイモン・ヒルは、開幕戦からしばらくの間、マシン開発が失敗していた影響で苦戦を強いられていたが、第11戦ハンガリーGPの頃にはマシンの改良も成功し、同GPで予選3位を獲得。炎天下となった決勝では、早々にタイヤにブリスターができたトップのシューマッハ(フェラーリ)を11周目にかわして首位に立つとそのまま独走。アロウズチームとヤマハエンジン、そしてブリヂストンタイヤとしてのF1初優勝の瞬間が訪れるものと思われたが、油圧系のトラブルに見舞われ最後はギアも3速から動かず、最終周にてヴィルヌーヴに追い抜かれてしまい2位に留まっている。ブリヂストンのF1プロジェクトリーダーを担当した浜島裕英は、「タイヤによって下剋上を起こせることを証明した反面、パワーサーキットではしっかりしたマシンで無いと絶対に勝てない」「ハンガロリンクみたいなサーキットでは勝てたかも知れないが、チャンピオンを獲るにはトップチームと組む必要を痛感させられた」「ハンガロリンクでは勝ってはいけなかった、F1の世界は甘くはないと教えられた(同時にヤマハ側にとっては結果的に勝利へのラストチャンスになったレースでもあった、とコメント)」と当時を振り返っている[1]。
- ^ 「浜島裕英インタビュー」『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 59頁。
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