1896年アテネオリンピック
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ハイライト
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- 古代オリンピックに感銘したピエール・ド・クーベルタン男爵により提唱。
- 大会参加者は男子のみであった。女子の出場は第2回オリンピック以降になる[3]。
- ギリシャ人たちが伝統のスポーツと信じていた円盤投をはじめ、陸上競技で次々に外国勢が優勝を決めたことにギリシャ人の落胆は大きかったという[4]。しかし、古代ギリシャの栄光を称えて新設された長距離競争種目マラソンにおいて、ギリシャのスピリドン・ルイスが優勝[2]したことで、ギリシャ人たちは大いに熱狂した[4]。
- 財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与された[3]。
- アレクサンドリア在住の大実業家であるジョージ・アベロフ(名はジョルジュ・アベロフ、イェロギオフ・アヴェロフとも)は、メインスタジアム再建費用のうち92万ドラクマを寄付した[4][5]:148。室内競技は、ルーマニア在住のザッパス兄弟(Evangelos ZappasとKonstantinos Zappas。正確には従兄弟)が1887年に寄贈した室内競技場「ザッペイオン」で行われた[4]。
- 財政難を補うため、12種類の記念切手を発売したり、高額の入場券を前払い制にしたりして、運営資金を捻出している[5]:148。通常は選手や役員などに渡される参加記念メダルがかなり大量に製作されており(約2万個)、一般に販売されたものと考えられる[5]:148。
- 当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していた[3]。
- アマチュアであるか否かの判断も不明確であったため、参加国数・参加選手数については諸説がある[5]:148。国際オリンピック委員会は「14ヵ国・241名」としているが[6]、参加選手数を245名あるいは285名とする説や、「13ヵ国・311名」とする文献もある[5]:148。
- 記録:トーマス・バーク(アメリカ、陸上競技男子100m)12秒0
- フェンシングで銅メダル、射撃競技でも銀銅2つのメダルを獲得したホルガー・ニールセン は、後にオリンピック競技になるハンドボールのルールを策定している。
- 雨天のため、閉会式はマラソンの翌日の4月15日に実施された[3]。
- 競泳競技は4種目が行われたが、その1つは男子100m自由形(水兵の部) (Swimming at the 1896 Summer Olympics – Men's sailors 100 metre freestyle) であった。この種目の参加資格は「ギリシャ海軍の水兵」で、10人がエントリーしたが3人しか出場しなかった。1997年に本大会の記録集を編纂した国際オリンピック史学会のビル・マロンは「オリンピック記録に含めていいかは疑わしい」と述べているが、国際オリンピック委員会の公式記録に残されている。オリンピックにおいて参加資格が閉鎖的であることは特異であるが、クーベルタンら大会に関わった主要人物が反対した記録はない。
- 水球・馬術・クリケットも予定されていたが取りやめとなり、またボート競技は荒天で中止となった[4]。
- ^ http://www.joc.or.jp/column/olympic/history/002.html - JOC オリンピックの歴史(2.近代オリンピックの始まり)
- ^ a b c 日本オリンピック・アカデミー編著『JOAオリンピック小事典』メディアパル、東京、2016年6月23日、94-95頁。ISBN 978-4-89610-160-7。
- ^ a b c d JOC - アテネ1896(3) オリンピックコラム
- ^ a b c d e “オリンピック”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2020年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e 藤瀬武彦 (2019). “スポーツ文化財としてのオリンピック関連資料の収集について(第1報)1912年、1940年、及び1964年夏季オリンピックに関する収集品”. 新潟国際情報大学国際学部紀要 4 2020年10月7日閲覧。.
- ^ “ATHENS 1896”. IOC. 2020年10月8日閲覧。
- ^ “オリンピックの33競技を専門家が解説! 親子で楽しむ「東京2020」(34) 円盤投/陸上競技”. マイナビニュース (2020年3月23日). 2021年5月29日閲覧。
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