飯富季貞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 02:41 UTC 版)
血統
父の名は不詳。一説に源季遠。季遠が満政流の源重時の養子となったことから清和源氏満政流といわれるようになるが、季遠の実父は不明。季貞は飯富氏を称し、その子、宗季も飯富氏を称す。同じ飯富庄を本拠地とした飯富忠宗との血縁関係があったのではないかということから、忠宗の父、源義忠を流祖とする清和源氏義忠流といわれることもあるが、流派に関しては諸説があって定かではない。 ただ、子の宗季は清和源氏義忠流としている。
参考:
という系譜が、源季遠が源重時の養子となったことで、
となったとする。
注:『尊卑分脈』では、源季遠の記述として「若狭国住人。刑部卿平忠盛郎党」とあり、実父については触れていない。また、飯富庄との関連では、源忠宗が飯富源太を称し、飯富氏を名乗った後、宗季が飯富氏を名乗るまで、源季遠も、源季貞も厳密には飯富氏を称していない。ただし、源季貞に関しては、飯富庄司という名乗りがあることから、飯富庄との関係があったものと思われる。一部には、下記のような系譜も存在している。
この系譜では、満政流の源重時の養子であった源季遠の孫の源宗季が源(飯富)忠宗の養子となり、飯富宗季と名乗ったとする。
以上のように、源季貞周辺の系譜は確定されていない。
子孫
源季貞には宗季、宗遠の二人の実子と、養子の源季政(西住)がいる。宗季、宗遠は鎌倉御家人となり、季政(西住)は西行の親友で、高野山で西住上人と呼ばれる高僧になった。
源季貞の兄弟には豊後守源光季がおり、北面武士で平家方で敗戦し、捕虜となる。光季の子の源光行は鎌倉に下り、父の助命を嘆願し許される。その際に記した紀行文が「海道記」。後に河内守となり、歌人としても著名で「河内本源氏物語」を記した。光行の子は源親行(河内守)、その子は義行、その子は知行と続いていく文人の系譜である。
代表歌
人志れず思ひそめてし心こそいまは泪のいろとなりけれ 『千載和歌集』
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