谷時中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 16:05 UTC 版)
経歴
若いころに高知真常寺(浄土真宗)に入り慈沖と号したが、仏道のほかに中国の古典も読んだ。南学派朱子学の祖とされ、土佐吉良宣経に仕えた南村梅軒に朱子学を学んで還俗し、時中と号した。高知で儒学を講じたが、藩などには仕えず、生涯在野ですごした。門下に野中兼山、山崎闇斎、小倉三省などがいる[2]。墓所は高知市横浜東町11にある「清川神社」であり、高知県指定の史跡となっている。
逸話
2代土佐藩主山内忠義が 瀬戸巡行の折、日が暮れたので、真常寺境内を通過しようとしたところ、「ここは寺域である。官道を通られたい」と諌めた、という。
高知市横浜で、新田開発し、その新田を子の一斎のために、播磨屋に売却したという。
文献
- 山根三芳『谷時中・谷秦山 叢書・日本の思想家』明徳出版社、2015年
関連項目
外部リンク
- 1 谷時中とは
- 2 谷時中の概要
谷時中と同じ種類の言葉
- 谷時中のページへのリンク