芳澤あやめ (初代) 芳澤あやめ (初代)の概要

芳澤あやめ (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 05:39 UTC 版)

しょだい よしざわ あやめ
初代 芳澤あやめ

木笛庵痩牛作『雨夜三盃機嫌』(元禄6年)[1]
屋号 橘屋
生年月日 1673年
没年月日 1729年8月9日
本名 斎藤権七
俳名 春水
出身地 紀伊国中津村
(現和歌山県日高川町[2]
長男:二代目芳澤あやめ
次男:初代山下又太郎
三男:初代中村富十郎
四男:三代目芳澤あやめ
当たり役
『傾城浅間嶽』の傾城三浦

経歴・人物

紀伊国中津村和歌山県日高川町)の生まれ。5歳の時に父を亡くし、その後道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで女形としての修行を重ねた。後年女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏む。

元禄5年(1692年)にに上り、元禄8年(1695年)に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。元禄11年(1698年)には『傾城浅間嶽』での傾城三浦役が人気を博す。正徳3年(1713年)11月江戸に下り、翌年11月に帰京。その2年後には役者評判記『三ヶ津惣芸頭』で高い評価を受ける。享保6年(1721年)には立役に転じて芳澤權七を名乗るが不評で女形に戻る。この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明。

享保13年(1728年)隠居、翌年死去した。

初代あやめは、舞台だけでなく日常生活でも常に「女性」を意識していなければならないと門人に教えていた[3]。食事は、みなから離れて一人で食べなくてはいけない、食べている時に男になってしまったら相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加えて『役者論語』にまとめられた。

参考文献

外部リンク




「芳澤あやめ (初代)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「芳澤あやめ (初代)」の関連用語

芳澤あやめ (初代)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



芳澤あやめ (初代)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの芳澤あやめ (初代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS